約8年前、仏教思想に興味をもちはじめた頃に、覚(さと)りとは科学的に何だろうという疑問と同時に、うすうす決定論的カオスと何らかの関連があるのではないかという淡い期待があったのです。
創造的な「華厳経の風景」の画像を生み出した決定論的カオスの発生条件は、非線形性の漸化式を用いることでした。これに関しては、「「重重無尽」が行き着く世界」での考察をはじめ、今までにいろいろな観点から考察してきました。
今回は、この決定論的カオスの発生の仕組みをよりわかりやすく理解するために、西田幾多郎の哲学を参考にして、人間の場合に当てはめて類推してみることを試みます。
今回も「仏教思想と西田哲学を「通信と制御」の視点から見る」のシリーズとして、通し番号を付けて考察します。
自己の内面の状態が、単純な線形の場合と複雑な非線形の場合について考察してみましょう。ここで線形とはグラフで表現すると一本の直線で表せるもので Y= A・X + B ということです。
一方、非線形は、一本の直線では表現できない場合で、最も簡単な場合は同じ直線でも途中で折り曲げられたような場合です。これについては、エピソード編での「対立構造の共存する世界」で考察していますが、そこでは「複雑多様なこの世の中、一本の直線ですっきり表現できる現象など、きわめてまれな存在で、いろいろなあつれきによって幾重にも折り曲げられても、存続するためにはやむおえないというのが、本来の姿なのでしょう。」と記しています。まさに非線形性というのは、このような状態をいうのでしょう。
すなわち非線形性を人間の場合に当てはめてみると、自己自身を形成する自己の内面において、少なくとも二つの矛盾する事象が対立したまま共存している状態をいうのでしょうか。
厳密な意味で正確かどうかは判断できませんが、西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」というのは、このことをいうのではないでしょうか。
西田の「絶対矛盾的自己同一」の記述で、例えばその最初の部分で次のように述べています。『現実の世界は何処までも多の一でなければならない、個物と個物との相互限定の世界でなければならない。故に私は現実の世界は絶対矛盾的自己同一というのである。かかる世界は作られたものから作るものへと動き行く世界でなければならない。・・・
現象即実在として真に自己自身によって動き行く創造的世界は、右の如き世界でなければならない。』
ここで「作られたものから作るものへと動き行く世界」とは「行為的直観」の世界を意味し、作るものと作られたもの、あるいは行為と直観の相互限定の世界を、自己の内面の状態として表現したのが「絶対矛盾的自己同一」ということなのでしょう。そしてこのような世界が「創造的世界」であると西田は主張しているのです。
このように「行為的直観」と「絶対矛盾的自己同一」と「創造的世界」とは密接な関連があり、この三つのキーワードが対(つい)で記されている文章がきわめて多いのです。
さて、このシリーズ(3)で考察したように、「作られたものから作るものへ」や「行為的直観」は科学用語でいう「フィードバック制御機構」に対応するものでした。さらに(8)の後半で考察したように、出力と入力を直接結ぶフィードバック機構を、数学的に表現したのが漸化式でした。
そして、今回考察している、自己の内面的な状態を表現している「絶対矛盾的自己同一」が、科学用語でいう「非線形性」に対応すると類推できれば、これらは「決定論的カオス」を発生するための条件で、西田哲学と決定論的カオスとの対応がつくのです。
そしてこの決定論的カオスは、「華厳経の風景」のような飛躍的な新たな秩序を生み出す「創造的世界」を意味しているのです。
なお決定論的カオスの文意を考えるに、「決定論」は「必然」を意味し、「カオス」は混沌(こんとん)で、いわば「偶然」を意味するのです。この相対立する「必然」と「偶然」あるいは「秩序」と「無秩序」とが共存する世界が決定論的カオスなのです。
テーマ『開かれた自己』やこのシリーズ(8)の前半での自覚についての記述で考察したように、西田の「自覚の構造」は漸化式で表現できるのでした。
さらに(8)の後半で考察しように、フィードバック機構で出力と入力を直接結び付けた場合が漸化式として表現でき、 図6の(B)のように出力Xn+1を次のステップで直接入力側にフィードバックする回路で表せるのでした。
漸化式の値の変化を知るには、「19.空海密教のカオス的世界観」での考察のように、横軸に時間の経過を意味するnの値をとり、縦軸には出力Xn+1の値をとったグラフで調べました。
今回は、関数 f(Xn) の特性、すなわち線形の場合と非線形の場合とによって、時間nを段階的に変化したときの出力Xn+1の値がどのように変化するかをグラフ上で見ていくことにします。
このためには、横軸にXnをとり、縦軸にXn+1をとりますと、このグラフ上で関数f(Xn)の特性を表現できると同時に、Xn+1の値の変化も表現できます。これには Xn+1=Xnの補助線を引く必要があり、これでグラフ上で出力Xn+1の値をつぎのステップの入力Xnに置き換えることができ、Xn+1の値の変化を連続的にグラフ上に表示することができます。
図11の(A)は、f(Xn)が直線(赤線)0.7*Xn + 0.15 の場合で、初期値X0が0.15と0.9のときの計算過程を赤丸印で示しています。いずれも赤線とXn+1=Xnの補助線との交点に向かって収束しています。(B)はf(Xn)が 1.4*Xn - 0.2 の場合で、X0 が 0.4 と0.65のいずれも収束はせずに、大きくなるか小さくなって発散する場合です。このように直線の勾配が1より小さければ収束し、大きければ発散します。
(C)と(D)は直線の勾配が負の場合で、-0.75*Xn + 0.8 と-1.25*Xn + 0.8 の場合です。いずれも変動しながら(C)は収束、(D)は発散していきます。
図12は直線(赤線)が中央で折られた逆V型で、
0≦Xn≦0.5 のとき、f(Xn)= 2*Xn
0.5≦Xn≦1 のとき、f(Xn)= -2*Xn + 2
すなわちXn が0 から0.5 の間は、f(Xn)はXnの増加に比例して増加しますが、0.5 から1の間は Xn の増加で逆に減少し、相反する性質の直線が共存する様相です。
ここでは初期値X0=0.136 の場合ですが、n が 1以上は、赤丸印のそばに数字を記入しています。n=15までで止めていますが以後このような変動が続くと思われます。この進展過程からわかるように、f(Xn)の値が 1 に近づくと0 の方向に引き戻され、逆に f(Xn)が 0に近づくと1 の方向に引き戻され、値は不規則に変動し、収束も発散も起こり難いのです。これは相反する性質が共存しているからです。
図13 は、「19. 空海密教のカオス的世界観」で考察した生物の生存数の時系列変化を表すといわれている f(Xn)= A*Xn*(1-Xn) の二次関数の漸化式で、カオスとなる条件 A=3.9 です。ここではX0=0.405 のときの進展過程を示します。 f(Xn) の値が不規則に変動する様子がよくわかります。
いま何らかの問題を考える時、その基となるある状態から出発して、いろいろ思考をめぐらすときに、下記のような場合があると思われます。
これらの思考の状態を自覚(漸化式)の進展過程のグラフ@とAに対応してみましょう。
(1)は問題が単純な場合で、単純な思考を積み重ねていくだけで解決できる問題です。グラフでいうと線形で収束するタイプに対応します。これは通常の判断やその事柄に執着することであり、一般的な分別や執着からは、創造的な発想は生まれないでしょう。
(2)は考えがまとまらず拡散してしまう場合で、これは線形の発散タイプに対応するのでしょう。いわば集中力はとぎれ、あきらめの境地となるのでしよう。
(1)と(2)で、「収束」と「発散」というキーワードは「唯識・三性説と「空」の基本構造」で考察した「ズームイン」と「ズームアウト」に対応するものと思われます。ズームインは視野を対象に接近させることで、問題の解にせまることであり、仏教用語では「分別」や「執着」に対応するのでしょう。
一方ズームアウトは視野を対象から引く(遠ざける)ことで、仏教用語で「出離(しゅつり)」というようです。これはより広い視点から、さめた目で対象を見ることで、「無分別」や「無執着」に近づくことなのでしょう。ただしズームアウトが過度になると、関係のない事象が増大し、問題の手がかりがボケてしまいます。
問題を解決するには、鈴木大拙が強調するように「無分別の分別」が必須であり、ズームアウトとズームインを繰り返す必要があるのです。すなわち思考の過程では、過度の発散や収束を抑制しながら、これらを何度も繰り返すことが肝要なのでしょう。
(3)は、絶対矛盾的自己同一、すなわちいろいろな対立(矛盾)する考えを包括した状態で、自覚をすることは、まさに非線形の漸化式を実行したときのグラフの挙動に似たカオスの発生現象が起こることが期待できます。すなわち思考は絶えず不規則に変動を繰り返すのですが、時間をかけることで、ある時突然、ばらばら(矛盾する)と思っていた考えが結び付くことに気づき、飛躍的な発想が生まれる可能性があるのです。
非線形の漸化式の挙動からわかるように、収束しそうになると引き離し、発散しそうになると引き込むのです。そうしてこのような揺らぎが長時間続くのです。脳研究者 池谷祐二氏によると、脳の長時間の揺らぎは発想の源泉だそうです。
自己の内面にいろいろな対立構造が共存することは、思考過程できわめて重要なことで、安易に平凡な結論に流れたり、考えが発散することを抑制し、いろいろな視点からの思考を長時間維持する効果があるのです。西田の「絶対矛盾的自己同一」が「創造的世界」に通ずるのは、このことをいうのでしょう。このような思考を非線形思考とでもいうのでしょうか。
(14)と(15)で、西田哲学と決定論的カオスとの対応について考察しましたが、今までの考察を総括的に考えますと、西田哲学と複雑系の科学との対応がつくように思われます。この対応を下記の表で示します。
西田の著書の中のキーワード | 複雑系の科学のキーワード |
---|---|
純粋経験 | センサー(機械的な受容器) |
自己が自己に於いて自己を映す 自覚 | 自己相似集合図形 漸化式 |
場所(他との関わりの場所) | 開かれた系 |
自己限定 | 自己制御 |
1) 個物と個物の相互限定 2) 一般者の自己限定 (※1) 歴史的世界、歴史的生命 | 自己組織性 |
行為的直観 作られたものから作るものへ | フィードバック制御機構 |
絶対矛盾的自己同一 矛盾的自己同一 非連続の連続が因果関係 | 非線形性 パイこね変換 |
創造的世界 | 創発 決定論的カオス |
今まで考察を行ってきた事柄を思い起こすままに並べてみたのが上記の表で、例えば「何かを生み出す母体としてのマトリックス」で考察しているように西田は「自己が自己に於いて自己を映す」が自己相似集合であることを理解していました。また(8)の前半で考察しているように、自覚の基本構造が漸化式であることも知っていたのです。西田幾多郎が仏教思想と数学に精通しいていたのが、このような結果になったものと思われます。
西洋哲学を基盤とした近代科学は、複雑な現象を単純な要素に分割し、各要素の性質を詳細に調べ、それらを積み重ねる線形思考で解決しようとする手法でした。ところが電脳の発達にともない、このような手法に批判が加えられ、複雑な現象を複雑なままに非線形現象として扱う複雑系の科学が登場したのです。
一方、西田は西洋哲学を十分に修得した上で、仏教思想を背景として、西洋哲学を批判することで生み出されたのが西田哲学なのでしょう。
従って西田哲学と複雑系の科学は、基本的な考え方としては大差なく、ある程度対応することは考えられることなのです。