唯識・三性説と「空」の基本構造

まず最初にとりあげたい仏教思想として、大乗仏教の最も主要な思想の一つで、五世紀頃に確立されたといわれる「唯識(ゆいしき)」をとりあげます。

この知識を得るための参考文献として、 竹村牧男 著「知の体系ー迷いを越える唯識のメカニズム」((株)佼成出版社、平成8年6月)を参考にさせていただきます。

最近の検討課題として、「空」についての考察を行い、 「視点の転換」に着目した「空」のあり方や、「空」の基本構造としての自己相似集合図形について検討をしてきました。今回もさらに進めます。

インドで五世紀のころ、弥勒(みろく)・無著(むじゃく)・世親(せしん)によって大成されたという「唯識」では、「空」のあり方や現実の世界をどのように認識するかという存在論的な観点などに関して、三性説やこの三性の修道による自覚などで説かれております。そこで参考文献の第五章「三性門の唯識」と第七章「仏果門の唯識」について主にとりあげ、考察したいと思います。

唯識・三性説

第五章の最初の部分を引用させていただき、三性説の概略を説明します。

『・・・三性とは、遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)・依他起性(えたきしょう)・円成実性(えんじょうじっしょう)という三種の存在のことです。これは、唯識の立場で、空・有の事や中道について説明する理論です。・・・

遍計所執性とは、分別されたもののことで、対象的に実体として把握され、執著(しゅうじゃく)されたものということです。依他起性は、他に依るもののことですから、縁起の中の存在すべてを意味します。円成実性は、すでに完成されているもののことで、もとより変わらない事象の本性そのものを意味します。それは、縁起の故に無自性、無自性の故に空といわれる、その空なる本質、本性のことに他なりません。

ここで、中心となるのは、依他起性です。依他起性すなわち縁起の世界が、実体視され、執著されたものが遍計所執性であり、その依他起性すなわち縁起の世界は、常に空を本質としている、その本性が円成実性です。・・・』

唯識、すなわち唯だ識(八識)のみの世界は、そのまま依他起性すなわち縁起の世界なのです。ところが凡人の日常では、「言語」によって誤った認識がなされ、遍計所執性のみとしかとらえられず、この陰に隠れた依他起性は認識され得ないのです。

唯識の修道によって、修行が進行し完成に近づくと、 遍計所執性は滅していき、本来の依他起性の世界すなわち無自性・空の世界を認識できるとのことです。そしてこの依他起性の中での本性としての円成実性が了解されるとのことです。依他起性と円成実性との関係は、「非一非異(ひいっひい)」と表され、いわば個物(特殊)と一般者(普遍)の関係として説かれているとのことです。

以上のような唯識の三性説では、「色」と「空」との相異は、「認識」の違いによって起こるという説であり、まさに「視点」の相異であることを物語るものと思われます。

ズームイン・ズームアウトの世界

仏教哲学では、悟りの境地に達するとき、あるいは「空」を観じるときには、「超越」とか「飛躍」という不連続を感じさせるような言葉がよく用いられます。ズーム(Zoom)とは、フリー百科事典(Wikipedia)によると、(1)「ビューと飛ぶ」という意味の英語の擬音。(2)飛行機が急上昇すること。(3)被写体に近づいたり、遠ざかったりすること。・・・などの意味があるようです。

普通、映画やカメラ撮影で、対象を写すときに、通常の(常識的な)距離で撮るのではなく、特に対象に接近したり、あるいは望遠レンズで対象を拡大するズームイン(Zoom in)や、対象から引く(遠ざかる)こと、あるいは広角レンズを用いて対象を縮小するズームアウト(Zoom out)などに使われます。

Outという言葉にこだわれば、(場所から外へ)「出る」「離れる」という意味です。Zoom outはカメラを引く、遠ざけることで、「出離(しゅつり)」と表現できるでしょう。

ものの見方すなわち「観法」によって、認識が変わり、その結果自己意識も大きく変わるのです。 人間がその存在を認識するための観法としての三性説も、対象との距離に依って影響を受けると思われます。そこでこのズームイン(接近・拡大)とズームアウト(出離・縮小)の認識に対する特性を、以後詳細に考察します。

ズームアウトは、対象からカメラを引く(遠ざける)ことを意味するものですから、対象の全体像を大局的に把握するのに優れています。いわば「森を見て木を見ず」ということなのです。

これは後に表示する表1の「天空から自己や他者の関わる世界を見る視点」に相当するものですが、森としての世界全体は大局的に把握しやすいのですが、ただし木に相当する自己と他者との違いや自己とその周囲の物との違いなどは見にくくなるのです。対象から「引く」「離れる」ということは、執着から「引く」「離れる」ことで、我執や法執は緩和されるのです。個々の違いがぼやけてくると、 分別(差別)不可能になるのです。仏教用語でいうと、これを「不可得(ふかとく)」というのでしょうか(?)

一方、ズームインは、対象にカメラを接近させることですから、対象を部分的に詳細に観察するのに優れています。これは「木を見て森を見ず」に対応し、つまり視野が狭くなり部分的にしか見えなくなります。部分を拡大して見るということは、「分析」することに相当し、「分割」とか「分別」することを意味します。これは、後に表示する表1の「自己から他者を含む世界を見る視点」に相当します。

カメラで対象を写すときに、徐々にゆっくりズームインしていくと、自分の周囲には、多くの他者や物がひしめき合っているのが明確に見え、それらをそれぞれ自分との関係として認識するために、言葉を介して区別してしまうのです。そしてこの思い込みがさらに乗じて、この区別したものを、自分の都合がよいように支配したい欲求が生まれ、執着や作為が生じるのでしょう。これが遍計所執性の世界であり、「色」の世界なのでしょう。

以上をまとめますと、対象に近づくというのは、対象に執着する心を強めることを意味し、逆に対象から離れるというのは、対象に執着する心を滅することを意味します。ズームイン(接近・拡大)は、 「色」の世界に近づくことで、ズームアウト(出離・縮小)は、 「空」の世界に近づくことなのです。

現実の世界から遠く離れるということは、日常向かい合っている他者や物についての執着心から解き放されることであり、まさに「天空」に遊ぶ境地であり、すべて自己と一体となれる自由自在の宇宙なのです。そしてこの「縮小」の世界は、いままで検討しいてきた華厳経の世界でもあり、自己相似集合図形とも密接な関係があるのです。

仏教用語で、「出離」とは『煩悩を去って悟りの境地に入ること』で、また「出離生死』とは『生死の苦界を離脱して悟りの世界に入ること』と広辞苑に記されています。

ところで、さらに極端にズームインして、対象に自らが入り込んでしまったら、様相は一変します。これは自己と対象が一体化(「相即即入」)することで、まさに不二の世界になるのです。ただし一体化することは、容易なことではなく、自己の「識」の中のカメラで一体化した自己と対象を撮り、その影像として認識しなければならず、これにはそれ相応の修行が必要となります。

ここで少し話は飛びますが、鈴木大拙は、十二因縁と悟りについて、次のような記述をしています。

『・・・無明ということが、どうして出て来たか、何処から、何故出て来たか、この疑問を解決しなければならぬのであるが、それはこの十二因縁の圏外に脱して見なければ分らぬものである。十二因縁をやたらに上下順逆に観じても、その疑問の解決はつかぬ。東海道五十三次というものを、京都から立って東京に行って、東京を立って京都に何遍往復しても、東海道五十三次は五十三次で、これを包含している全体の地理的関係はわからぬ。 今なら飛行機でその圏外に、 超然として一ぺん、出なければならぬ。圏内にあっては分からない。けれども圏の外に出るということだけではいけない。外に出ると同時に内に入っていないと分らぬ。十二因縁というものを超越しないと、十二因縁は分らぬが、また同時に十二因縁の中に入らないと十二因縁は分からぬということになっている。・・・』(「鈴木大拙全集」、第十四巻、(株)岩波書店、2000年11月)

これは、ズームアウトして、 天空から対象を見ると同時に、 極端にズームインして、 対象の中に入り込んで対象を見る必要性を示唆(しさ)しているものと思われます。

三性説と「空」の基本構造としての自己相似集合図形

ズームアウト(出離・縮小)の世界は、「一毛孔の中の国土」とか「一微塵(みじん)の中の国土」といった詩の文章が登場する華厳経の世界でもあるのです。 「華厳経の風景」で再三引用していますが、良寛さんが仏道についてよんだという和歌、『淡雪の中に立ちたる三千大千(みちおおち)またその中に淡雪ぞふる』の感覚は、まさに「空」の基本構造そのものです。

淡雪を現実の世界と見立てて、それを「識」のカメラで写し込むとき、ズームアウトしたりズームインしたりして観察し、雪の結晶構造のような円成実性の仏の世界に思いをはせ、すぐに消えてしまう淡雪の無常の存在を感じとれれば、と思うのです。そしてこの歌の最大の特徴は、「入れ子」構造であることで、雪の結晶構造と同様に自己相似集合図形に関連する作品なのです。

自己相似集合図形というのは、単なる幾何学図形といえども、これを言葉で表現したら、ズームインしてどんなに拡大して小さな部分の内部を見ても、ズームアウトした大局的な全体と同じなのです。仏教用語でいうなら、どんなに分別をしても未分の状態が保たれるという、 対立の生じない不二の世界を表すもので、 「絶対」という表現に値する図形なのです。

そしてその構造は、三性説における「空」の構造すなわち円成実性ならびに依他起性の構造に一致します。すなわち自己相似集合図形において、全体を構成する部分は互いに礙げ合うこともなく、全体も部分も何らかの秩序をもった美しさで配置されており、特に全体は一つの円満に完成された世界であり、円成実性といえるでしょう。全体を構成する各要素(部分)は、相互に依存し合った関係のみによって配置され、依他の関係すなわち「縁起」で構成され、 依他起性に相当すると考えられます。

部分的にどこか一個所でも欠けたならば、すなわち全体と部分あるいは部分と部分との同一性が崩れたら、この図は原則的には成立しないのです。

以上の考察から、前々回に検討した「自己究明 / 視点による自己意識の違い」での「視点の転換による済度」に関する表1を次のように増補します。

表1.視点の転換による済度
自己から他者を含む世界を見る視点世界の上方(天空、宇宙、仏)から自己や他者が関わる世界を見る視点
「色」(分別と差別)の世界「空」(無分別と無差別(平等))の世界
主客二元的な対立が生まれる。
当然、自己中心的な執着、欲望、怒りなどの人間の苦の原因となる煩悩が芽生えます。
この苦を「度する」には、視点の転換が必要となります。
「主客不二・物我一如」の境地が生まれる。
大局から見れば、世界を構成する個々の人や物に対して、区別など付けようがなく、全く同等と見るのが基本となるのでしょう。
すなわち個々は世界を構成する仲間であり、そこに倫理観や慈悲の心が芽生えます。
この世界観を図で表現したのが「空」の基本構造です。
− − −「空」の基本構造としての自己相似集合図形
(唯識・三性説)
依他起性(えたきしょう)
    ↓ 言語
遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)
(唯識・三性説)   〔空の基本構造との対応〕
円成実性(えんじょうじっしょう)   〔全体・普遍〕
依他起性   〔部分・特殊〕

四智と自己相似集合図形との関係

唯識で仏とは、八識から四智を導き出した人のことで、これには長遠(ちょうおん)の時間の修行が必要なようです。

そこで引用文献の第七章での四智の意味を引用させていただいて、自己相似集合図形との関係を考察したいと思います。

(1)『大円鏡智(だいえんきょうち)とは、 大きな円い鏡のような智慧ということです。それは、宇宙の森羅万象をすべてそこに映し出しているような智といえましょう。 鏡は、ものを即座に、ありのままに、映します。・・・』

全てをありのままに映す大きな鏡とは、 鏡のどの部分も全く歪みが存在しない状態をいうのでしょう。これを実際に調べるには、幾何学的な自己相似集合図形を鏡全面に映してみて、どの位置でも相似形が幾何学的に保たれているかどうかで、判定できます。すなわち自己相似集合図形は、大円鏡智の標準(規範)となるサンプルのようなものなのです。

ところで、三性説の章での「三性による修道の説明」での記述によると、十地(じゅつち)の修道中、それまで、依他起性の上に遍計所執性が執され、 円成実性が隠れていたものが、修行が進むにつれ、 円成実性が明確に了解されると記されています。すなわち大円鏡智はこのような経過にともなって、円成実性と依他起性との境地から生まれた智慧だと思われます。そして円成実性と依他起性の構造は、自己相似集合図形と対応できますので、 大円鏡智とは、自己相似集合図形から導き出される智慧と考えてよいのではないでしょうか。

(2)『平等性智(びょうどうしょうち)とは、平等性を証する智慧ということです。その平等性とは、自他平等性、自己と他者とが、本性、本質を同じくする、その本性のことです。・・・真如を証するということは、決して自他のみでなく、あらゆる存在にゆきわたっている平等一味(いちみ)の本性を証するということでもあります。・・・しかしとりわけ、苦しんでいる他者が自己の胸に響きます。そこでおのずから他者への利益の心がわき起こります。そのように、平等性智は、大悲の根源のような智慧です。』

この平等性智は、自己相似集合図形の構造の特徴そのもので、全体と部分ならびに部分と部分は同一です。この構造から自他平等性を容易に了解でき、他者との関係の中での自己であるとの自覚もでき、他者への思いやりの心が芽生えます。

(3)『妙観察智(みょうかんさつち)は、妙なる観察の智慧ということです。我執や法執によって偏向したり歪んだりしていた認識が、自我本位をすっかり離れた立場から、正しくありのままに世界を知るあり方に、変わったところです。・・・要は、客観的に、あくまでも公平無私に、世界の構造を分析していくもので、一つ一つのもの(事象)について、全体の中の位置を見極めるものといえましょう。』

妙なる観察とは、偏向したり歪んだりしていない、正しく公平無私のありのままの世界を観察することなのでしょう。公平・平等の世界は自己相似集合図形で表現でき、この図を観察することで生まれる智慧と考えらられないでしょうか。この図形では、一つ一つのもの(事象)の全体の中の位置は明確です。

(4)『成所作智(じょうしょさち)は、所作を成ずる智というもので、その所作とは、作すべき所ということ、作すべき所とは、その人が修行を始める一番最初に誓った願いの内容を意味します。・・・それはふつう、人びとを苦しみから解放することです。・・・このことを実現するために、この成所作智は、人びとの感覚に対して、あるものを映し出したりするはたらきをするものです。仏の姿を見せるとか、 浄土の様子を見せるとか、様々な感覚へのはたらきを通じて、人びとに憧憬と出離への思いを起こさせ、尊崇(そんすう)と敬虔(けいけん)の念を起こさせるのです。』

特に下線を引いた個所は、意味深長なところです。これはまさに「華厳経の風景」の趣旨そのものです。「華厳経の風景」の展示画像は、決定論的カオスから生み出されたもので、かなり複雑な画像です。「空」の基本構造としての、誰にでも構造が理解できる幾何学的な自己相似集合図形とは少し異なりますが、 同じ「フラクタル」に属する図形です。自然の秩序によく合致した美しい図形であり、 仏教に最もふさわしい図像といえるでしょう。

なお『人びとに憧憬と出離への思いを起こさせ』の「出離」は仏教用語ですが、先ほど考察したように、ズームアウト(出離・縮小)という概念にもあてはまる言葉です。ここで「縮小」とは華厳経の世界でもあり、 「入れ子」構造で「入れ子」を無限に入れ込んでいくことを意味し、これは自己相似集合図形の基本です。

以上の考察から、「空」の基本構造としての自己相似集合図形は、四智と密接に関係しているものであり、その核心が具体的に図として表現されているため、四智の智慧を現代にどのように生かしていくかを考える上でも、きわめて参考になるものと考えられます。

2008.11.9