「共通」と「多様」の複眼的視点/「不一不異」

前回考察しましたが、ナーガールジュナの「八不」は、単に従来の通説のように「実体(自性)」を否定するだけにとどまるものではなく、もっと深い意味が隠れているように思えるのです。

過去の思想をそのまま受け継いだのでは新たな展開はあり得ないのです。その思想を基盤として、現代に即した視点(解釈)があってよいのでしょう。

すなわち西田幾多郎の「主もなく 客もない」が「主客合一」を意味するように、「不一不異」は、「一即多(多即一)」を意味し、すなわち西田のいう「全体的一」と「個物的多」は、あたかも自己相似集合図形のように同一であるという意味に解釈できるのです。

「不一不異」を直訳すると、「(同)一であることなく、異なることでもない」とかなりあいまいな表現になるのですが、これもすでに考察しているように、「八不」の対構造全体に共通することなのですが、この分別不可能であいまいな中立的表現は、事物を偶然として(ありのままに)受け容れることを示唆していると解釈できるのです。

前回「不一不異」を個々の生き物の世界、個物と解釈していますが、個物は「普遍(共通)」と「特殊(多様)」とで成り立っているのです。すなわち個物は「外形や性質は同一ではなく多様であり、原理や機能は異なるものではなく共通なのです」と表現することもできるのです。このように「八不」の対構造は、複眼的視点で解釈すると直訳でも理解しやすい場合もあるのです。そしてこの個物の集合体である一つの世界と他の世界との関係も「共通」と「多様」とで成り立っているのです。

さらに西田の別の思想で「不一不異」を解釈してみましょう。西田は「絶対矛盾的自己同一」と鈴木大拙の「即非の論理」とは同じであることを認めています。自己否定は単なる自己否定ではなく、否定によって真の自己肯定になるのです。一を否定することにより真の一となり、異を否定することで真の異となるのです。このことは、一の否定としての多(異)は真の一であり、異の否定としての(同)一は真の多(異)であることを意味します。すなわち一即多(多即一)なのです。

ところで、「一即多・多即一」の世界を幾何学的に表現した自己相似集合図形は、全体と部分は確かに形状的に相似なのですが、各々の部分も同じ形状でした。個物すなわち自己や他者などを、相似(類似)という意味で今までは考察してきたのでした。一般的な思想などの考察においては、個物の一般性(普遍性・共通性)を重視して、一義的に扱ってきた訳です。

このシリーズでは、偶然すなわち特殊を重視した視点から考察をしているので、今までの考察とは少し異なり、「共通」よりは「多様」を主眼として、言い換えれば、形式にこだわらない東洋的自由の世界を考察することなのです。

現実では外見上、個物は千差万別であり全て異なるのです。今までの考察とも併せて、これをどのように考えるかが、今回の考察です。

個物の特徴は偶然からつくられる

偶然とは何かについて考察することは、「事象」を「必然」と「偶然」とに分けて話を進める訳ですが、これは「具象」を共通的な要素としての「抽象」とそうでない「捨象」とに分けたり、「個物」を「普遍」と「特殊」に分けるのに対応するのでしょう。

すなわち「偶然」とは、共通性のない要素として捉えられるもので、この意味では「捨象」や「特殊」に対応するものと言えるでしょう。人間の顔がそれぞれ異なることは、「必然」では考えられないことなのであり、「偶然」なのです。前にも考察していますが、過去からの長い歴史にともなう偶然の連鎖によって同じ人間でも、その外形や性質はそれぞれ異なるのです。

遺伝子組成が同じといわれている一卵性双生児でも、顔も指紋も血管の枝分かれ分布なども同じではないのです。これは人間のみならず自然界の木一本、葉一枚に至るまで全て異なるのです。

「偶然」という言葉が気に入らなければ、科学用語で、決定論的カオスにおける「初期値鋭敏性」とも表現できます。これは「バタフライ効果」といわれるたとえ話のように、地球の裏側で蝶が羽ばたけば、こちら側で台風が発生するといわれるほど、きわめてささいなことが敏感に反応して結果に反映するというたとえで、人間の能力では容易に感知(認識)できない世界の話です。

「共通」と「多様」の具体例 /複眼的視点で木を描く

自然を構成しているものは、太陽の光のめぐみを受けて成り立っていますが、地球上の気流(気象)や山や海や川などの無生物と、これらによって生まれ育まれている無数の生物なのです。これらが一体となって自らのはたらきで作用しているのが自然であり、これらは有機体と考えてよいのでしょう。

有機体とは、広辞苑によると『A多くの部分が一つに組織され、その各部が一定の目的の下に統一され、部分と全体とが必然的関係を有するもの。自然的なものとの類推で、社会的なものにも用いる。』という意味もあります。すなわち有機体とは、多即一(一即多)の世界であり、自己相似集合の世界でもあるのです。

鈴木大拙は、「自然」と「自由」は同じであるとし、そして、『「自由」は、積極的に、独自の立場で、本奥の創造性をそのままに、任運自在に、遊戯三昧するの義を持っている。』と記しています。私はこれを読んだとき、これが「生きる力」・「生命」なのではと感じたのです。「自然」=「自由」=「生きる力」・「生命」という図式がイメージできます。

自然の要素を生物と無生物とに区別する必要はなく、これらは一体となって生きているのです。自然が美しいのは生きているからなのです。国土としてのリアス式海岸も山も、また生き物としての木も草も、「一即多」の関係すなわちフラクタル(自己相似集合図形)で表現できるのです。自己相似集合図形については、今までに数多くの考察をしていますので参考にして下さい。

自己相似集合で木を描くには、まず木の基本パターンを決める必要があります。これは木の成長の形を決める遺伝子のようなものです。下図を見て下さい。

図1.自己相似集合図形で木の「共通」の要素を作る
図1.自己相似集合図形で木の「共通」の要素を作る

図1でレベル1が基本パターンであり、1本の垂直な線分(黒色)を親枝(幹)として、その任意の位置に何本かの任意の長さの子枝(青色の線分)を設定します。次のレベルでは、それぞれの子枝が親枝となり、基本パターンと相似の寸法の子枝が成長する仕組みとなっています。

レベル3になると木らしい形になりますが、これらは基本パターンが決まれば必然的に形成される木で、いわば普遍(共通)的な要素なのです。

毎年の木の成長は、その年の気象条件で大きく影響を受けますし、また成長しはじめた芽を動物に食べられてしまう可能性もあるのです。これらの偶然を扱うにはサイコロすなわち乱数(ランダム)関数を用います。

下図(図2)は、子枝の生長方向と小枝の成長本数の間引きだけを乱数関数で決めて、レベル3まで実行した例で、これだけでも「多様」な枝の木が形成されていることがわかります。図1では木の枝の太さは全て同一でしたが、図2ではレベル毎に太さを変えて、かつレベル1での黒色の線分すなわち地面から生えている幹の部分は、実際の木の幹に近い形で置き換えています。

図2.乱数(ランダム)関数で木の「多様」の要素を作る
図2.乱数(ランダム)関数で木の「多様」の要素を作る

以上は、コンピュータ・グラフィックス(CG)で木を表現する場合の常套(じょうとう)手段なのです。

このように、現実を観察するには、普遍(共通)と特殊(多様)の複眼的視点が重要なのです。これは「不一不異」すなわち「一即多」の思想に通ずるものと言えるのでしょう。

以上現実の世界は、自己相似集合(普遍・共通)だけでは表現できず、偶然(特殊・多様)とセットで表現する必要があるのです。

すでに考察していますが、アンフォルメル芸術において、現実に存在する対象を単に巧みに写すような具象画でもなく、従来の幾何学的な抽象画(「冷たい抽象」)でもない、もう一つの別な絵画とは、この偶然(捨象・特殊)を意味しているのでしょう。

2011.4.17
(追記) 「巨大ハードウェアの末路」

3月11日は、人知では如何様にもしがたい偶然の重大性を思い知らされる事態になってしまいました。これに関しては「偶然に遭遇したときの優位な態勢」で考察しています。

現代での巨大なハードウェアの一つは、原子力発電所でしょう。原子炉圧力容器は厚さ16cmの鋼板、格納容器は厚さ3cmの鋼板、建屋は厚さ1〜2mのコンクリートなど「5重の壁」で放射能物質を閉じこめる構造になっているといわれています。まさに巨大なハードウェア(hardware)そのものです。

これが自然の巨大地震とそれにともなう巨大津波によって、あっけなく再起不能になるばかりか、きわめて高濃度の放射能物質が外部に大量に流出してしまったのです。

約1憶5千万年もの長い期間、地球上で王者として君臨した巨大恐竜が、絶滅のきっかけになったのは一つの巨大隕石の衝突といわれています。このような自然の幾多の偶然の連鎖によって、現在の人間が存在していることを忘れてはならないのです。巨大なものが生き残るのではなくて、幾多の偶然に適切に対応したものが生き残れるのです。

千利休のわび茶で代表されるように、ハードウェアをできるだけ簡素にし、その代わりにソフトウェアを充実する日本独自の方式は、自然と対立せず自然と共に生きる考えでもあり、日本人の最高の智慧と考えられるのです。

自然に対して人間はもっと謙虚であるべきなのです。人間の都合のみでつくられた東京や大阪などの巨大都市も、いずれこのような洗礼はまぬがれないのでしょう 。

無生物といえども生物と一体となって機能しているときは生きているのですが、人間が作ったハードウェアの残骸(ざんがい)は、がれきの山であって生きているとは言えないのです。自然の一員である人間は、自然を生物が住めないがれきの山にしてはならないのです。

2011.4.17