涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)の世界
涅槃

まえがき

今回からは、前回までの「仏教思想と自己相似集合」に引き続いて、「涅槃寂静の世界」というテーマに挑戦したいと思います。

前回で少し考察をしましたが、言わば人間は自然から生まれ、自然の中で生活し、最後に自然に帰っていくのです。自然という母体に抱かれている境地を涅槃寂静というのでしょう。

この自然は「必然」と「偶然」とが混在して成り立っているのですが、前回の考察で「涅槃」は、どちらかというと「偶然」に近い世界であるという結論を得たのでした。

そこでこの「偶然」の世界が、現代の情報化社会において、どのような意味を持つかを考察していきたいと思っています。

「華厳経の風景」ですでに考察をしていますが、華厳経の「夜摩天宮菩薩説偈品(やまてんぐうぼさつせつげほん)」の偈の中に『たとえば巧みな画工が、自分のこころを知ることが出来ずにいて、しかもこころに由(よ)って画くようなもので、万有の性もまたこれと同様である。』という内容の記述がありました。

ここで、西田幾多郎が「行為的直観」の思想に関し、芸術的創作作用の観点から取り上げている「弁証法的一般者としての世界」の(三)の文章の一部を引用します。

『芸術的直観においても、単に全体的なるものが突然与えられ、それをそのまま実現するのではない。芸術家は一歩一歩に物を見ていくのである、而してその全体的なるものを訂正して行くのである。故にベルグソンの如く、真に如何なる作品が出来るかは芸術家自身も知らないといい得るのである。・・・

しかも我々は、芸術家が自己自身も知ることのできない作品を構成するが如くに、歴史を構成して行くのである。』という記述があるのですが、これは上記の華厳経の偈の現代的解釈とでも言えるのでしょう。

そして、我々が自分自身も知ることのできない歴史を構成していくと言うことは、この世の中で「偶然」が如何に重要な要素であるかを暗示するものなのです。

単行本を執筆するときには、その途中経過の展開や結末をある程度予想がついた状態でスタートするのが普通ですが、連載小説のような場合は、途中経過の展開や結末がどのようになるかなど知る由もないまま、多分執筆を始めるでしょう。

「華厳経の風景」や「仏教思想と自己相似集合」も、途中経過の展開や結末など全く予想できないで、いわばその時の「偶然」のめぐり合わせを期待して、考察を続けてきたのです。

これは科学者が何らかの新たなテーマで研究をスタートするときも同じで、夢は描けるのですが、普通は現実の研究途中の展開や結末などは知る由もないことなのです。そして幸運にも画期的な成果が得られたときには、「試行錯誤の結果、「偶然」に発見しました」とは普通は言わないで、「詳細なる解析の結果、発明しました」と表現するでしょう。

これは科学者に限らず全ての人間に言えることで、自分には何らかの能力が備わっているから、このような結果に導けたのだという「必然」として解釈する傾向にあるのです。同様に、あのような結果になったのは、他者のせいだと判断するのです。一般的には「偶然」を認めようとはしないのです。

これを人間の煩悩とか執着というのでしょうか。すなわち人間の世界は、「必然」に偏った世界なのです。

この偏りは修正されるべきもので、煩悩や執着を吹き消すことの意の「涅槃」が、「偶然」を意味することの価値・重要性がここにあると考えます。

2010.6.6