涅槃寂静の世界のイメージ

いままでの考察から、涅槃寂静の世界の具体的なイメージが浮かび上がってきたように思われます。今回はこれまでの回想をも含めて、簡明にまとめておきたいと思います。

涅槃は「否定でしか表せない世界」といわれているように、人間の言語表現や認識すらも否定された世界なのです。仏教において、なぜ人間の言語や認識が否定されねばならなかったかを考えるに、人間の思い込みやこれによる何らかの作為を起こさせることを徹底して滅却するためなのです。

それなれば、人間が安易に因や縁を想定(認識)してしまうような縁起は滅却の対象になる訳であり、唯一残るのは人間が因や縁を認識し得ない、偶然のめぐり合わせの因縁による事象の生起の世界なのでしょう。

偶然として受け入れることが、人間の思い込みやこれによる作為を滅却するための最良の方法だと考えています。偶然として受け入れるとは、「ありのまま」に受け入れる、西田幾多郎の言葉を借りれば「純粋経験」をすることなのです。それでは、このような言葉があるのになぜあえて偶然という言葉を採用したかについては、確率論や決定論的カオスなどと密接な関係があり、将来さらなる進展が期待できるからです。

もちろんいつまでも偶然のままで対応するわけではなく、徐々に周囲の情況が明らかになれば、人間は冷静に判断でき、因や縁をより正確に認識できるのです。認識すなわち視点が豊富になれば、偶然ではなくなり必然として理解できるのです。

言い換えれば、涅槃すなわち人間の煩悩や執着を滅却した世界は、自然界により近いものと考えられ、自然の法則によるおのずから成るの世界であり、自然は大気の流れすなわち気象によって大きく影響を受けますから、涅槃は決定論的カオスの世界でもあり、サイコロの世界でもあるのです。これは平等性や無作為を意味する上でも重要なことなのです。

大気の流れや水の流れにおいて、異質なものが混ざり合わされ(結び合わされ)たむろしている状態を、混沌という言葉で表現できるとすると、混沌は偶然のめぐり合わせによる新たな事象の生起の過程を表しているのです。

以上「涅槃」の世界は、偶然という言葉から導かれる、「平等」や「機会均等」、「偶然のめぐり合わせによる新たな事象の生起」や「混沌」という言葉が重要なキーワードとなるのです。

鴨 長明の観察『淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまるためしなし。』は、淀みは渦あるいは混沌を意味しますから、「消滅−混沌−新生」を意味したもので、涅槃寂静の世界そのものなのです。

さらに別の視点から考察すると、梵語ニルヴァーナは、吹き消すことあるいは吹き消された状態の意味でした。何かが燃えている炎が吹き消されると、黒い煙(すす)が立ち昇り、上方で乱れたなびく模様が形成されるのです。すすを固めたのが墨ですから、まさに墨流しそのものなのです。

涅槃寂静の境地とは、煩悩の炎が吹き消されたときの静寂と黒煙の濃淡の織りなす混沌とした東洋の美の世界なのです。

そしてこの美の特徴の一つは、アンフォルメル芸術の特徴の一つともいうべき、オール・オーバー(all over , いたるところ、どこもかも)のスタイルです。これは、主役と脇役とが明確に区別され固定されない、いわゆる中心が存在しない無中心構造なのです。仏教思想でいえば、「主伴具足」であり、どの部分をとってもそれが全体であり、全体が部分でもあるという「一即多・多即一」の思想でもあり、これは複雑系におけるフラクタル構造・自己相似集合図形に近いものです。

これらの構造は、人間の欲望や執念が消滅したときの様相とも解釈できるのです。すなわちすべてが平等の立場を基盤とした世界なのです。そしてこれが自然界の基本構造だと思っています。自然のみならず社会の構造のうち自然に形成されたようなもの、例えばインターネットのWeb(クモの巣)構造などにもいえるのでしょう。

涅槃寂静の世界すなわち混沌とした東洋の美の第二の特徴は、自己が対象を客観として認識するのではなくて、自己と対象が一体化することによる新たな事象の創造なのです。

西田幾多郎の「行為的直観」の構造での重要なはたらきは、「開かれた自己」としての「自覚」であり、『物が我を限定し、我が物を限定する主客合一の作用』の繰り返しによって、徐々に人間は進展していくのです。これを複雑系の科学でいうと、「非平衡開放系」のもとでの、「ゆらぎ」がフィード・バック効果で増幅され、混沌から秩序に移行する「自己組織化」の過程をいうのでしょう。

「行為的直観」とは、見ることと行為することが切り離し得ない仕方で結びついているフィード・バック回路そのものであり、『行為によって物を見る』とは、物との直接的な関わりのなかに立ち、行為(制作)することによって具体的に把握することを通して、はじめて可能になるのです。

これはまたアンフォルメル芸術のアクション・ペインティングに対応するもので、まさに「行為的直観」によって一瞬一瞬の機会を生かした偶然の事象を結びつけた、再現性の得られない(世界で一つだけの)作品を生み出すのです。

最近流行している巨大な毛筆を用いて床に敷いた用紙の上を動き回って描く、書道パフォーマンスはアクション・ペインティングそのものですが、この歴史は古く多分アクション・ペインティングの先駆けと言えるのでしょう。

偶然の事象のめぐり合わせで結びついた作品の驚異については、このシリーズで今後徐々に展示していく予定です。

生き生きとした自己であるためには、涅槃寂静の消滅・混沌の段階から、さらなる新生の芽ばえに移行する必要があるのです。これは従前の再生ではなく、機会均等の出会いと偶然の結びつきによる創発でなくてはならないのです。これは、燃えさかる炎を吹き消した後の黒煙の流れのゆらぎの模様の創造に対応するものです。

このように精神的にも肉体的にも新陳代謝が活発に繰り返される生活における涅槃寂静の世界を無住処涅槃というのでしょう。

以上涅槃寂静の世界を、誰でもわかるように一言で表現せよといわれたら、墨流しの混沌とした東洋の美の世界とか、偶然のめぐり合わせによる縁起の世界と答えるでしょう。

2010.12.12
(追記)

墨流しによって生み出される画像は、インターネット上での検索で見ることができます。墨流しの技法として、水面に墨と松脂とを交互に添加することで、同心円のようなパターンをつくることができます。これに息を吹きつけたり、筆などで水面の局部的な流れをつくることで、偶然性の強い模様を生み出せるのです。

ここに展示した画像は、電脳による決定論的カオスから生み出された画像の中から、墨流しの模様に近いものとして選んだもので、あたかも人間社会の縮図のような、数多くの同心円の押しくら饅頭のような模様です。

図

ただし、墨流しの画像として見た場合、この図は不完全なものなのです。例えば、紙独特の墨のにじみが表現されていなかったり、あまりにも整然とととのいすぎていることです。この画像は、墨流しの「普遍」的なパターンが主に表現され、「特殊(偶然)」が十分に表現されていない、数学的であり人間味の感じられない図なのです。「個物」は「普遍」と「特殊」で成立するのです。

2010.12.12