「命の尊さ」を教えた井上ひさしの確率論的視点

前回の考察を書き終えた次の日、七月七日(七夕の日)に有益な新たな情報に偶然に遭遇したのです。それはNHK総合のクローズアップ現代で、井上ひさしの「未来につなぐ言葉」という題の番組です。

この中で、井上ひさしの著書で「きらめく星座 --- 昭和オデオン堂物語 ---」((株)集英社、1985年9月)という本のあることを知ると同時に、この本の内容に、偶然が如何に貴重であるかが書かれていることを知ったのです。

今回はこの本についての考察です。

「縁起」や「関数」における必然と偶然

縁起と数学の関数との対応は、以前に「サイバネティックス」で考察していますが、仏教の縁起は一般に言葉で表現され、一方関数は数式で表現され、厳密さの面での相違はありますが、機能の面では同一と考えられます。

そして、縁起も関数も共に、必然も偶然も表現できます。必然は因果関係で記述され、因や縁から結果が導かれます。人間が因や縁を正確に認識できれば、結果は正確に予測できます。

一方、結果が予測できない偶然についても、多くの反復繰り返しの過程における縁の偶然の巡り合わせということで、言葉による縁起で表現できます。

電脳で用いられる関数には、乱数関数というのがあって、この関数を実行するごとに、サイコロを振ったときに出る目の数のような無作為の数を結果として表示してくれます。

また数学では結果が偶然によって支配される自然現象や社会現象については、実験や観察を数多く行うことである結果の起こりやすさに規則性がある場合があり、この起こりやすさを数値で表した「確率」で処理することも出来ます。すなわち、〔事象Aの起こる確率〕=〔事象Aの起こる場合の数〕/〔起こり得るすべての場合の数〕で表され、値は0〜1です。

例えば、コインを投げたときの起こり得るすべての場合の数は、表か裏かの2通りであり、従って表のでる確率は 1/2となります。

実験や観測を試行といい、試行の結果起こる事柄を事象といいますが、いま二つの試行において、それぞれの結果の起こり方が、互いに影響を与えないとき、この二つの試行は「独立」であるといいます。

二つの試行T1,T2において、T1とT2が独立であるならば、〔試行T1で事象A1が起こり、かつ試行T2で事象A2が起こる確率〕=〔事象A1が起こる確率〕X〔事象A2が起こる確率〕で表され、これを「独立試行における乗法定理」といいます。

さて、コインを8回投げて、8回ともすべて表の出る確率を求めましょう。この場合1回目の試行の結果は、2回目の試行の結果に影響を及ぼしませんから、独立試行です。

コインを投げたとき表の出る確率は1/2ですから、8回ともすべて表の出る確率は、1/2 x 1/2 x 1/2 x ・・・・1/2 = 1/(2 の8乗)= 1/ 256 です。

タコの「パウル君」の快挙は「奇蹟」か?

最近テレビを日夜にわたって盛り上げたのは、サッカーのワールドカップ南アフリカ大会でした。このうち興味深かった話題の一つが、試合結果を予想するタコ占いの話です。これは試合前に、水槽の中でタコが二つの箱から勝利チームのラベル付きの箱を選び、その中にいる貝を食べて占いの意思表示をするのです。

この大会でドイツチームが対戦する試合結果をすべて当ててきたドイツ西部オーバーハウゼン水族館のタコのパウル君は、決勝のオランダ対スペイン戦も予想を的中させ、8戦8勝の成績でこの大会を大いに盛り上げたのです。

これは「奇蹟」と呼べるでしょうか。タコのパウル君は、特にごひいきのチームはないと考えられますので、1回の試合で、勝つか負けるかを的中させる確率は1/2 です。従って8回すべての予想を的中させる確率は、コイン投げのときと同様に1/256 でしょう。

「奇蹟」とは偶然に起こる神秘(驚異)的な出来事です。確率 1/256 が神秘(驚異)的という言葉に相当するかどうかの問題です。この確率は、打率2割5分の打者が4回連続してヒットを打つ確率に相当し、決して容易ではないのですが年に一度ぐらいは起こる可能性のあり得ると思われ、奇蹟と表現するのは少しオーバーなように思えます。

ちなみに、年末のジャンボ宝くじで1等に当選する確率は、1等の本数が1本の場合、1ユニットの枚数は1000万枚ですから、1000万分の1です。これはまさに奇蹟です。

「命の尊さ」を表現するキャッチ・コピー

井上ひさしの「きらめく星座」は、演劇の脚本として書かれた戯曲です。舞台は、昭和15・16年頃、戦争にほんろうされながら生活をしている、浅草のレコード店「オデオン堂」の家族と同居人たちの物語です。

ここでは、第二幕の五、靴という題の後半の部分についてのみ取り上げます。店主である信吉の長女みさをは、戦争中に生まれてくる子供は不幸になると考えており、身ごもった自分のお腹の子を漬け物石で流産させようとしているシーンです。ここで長女みさをの両親である信吉や妻のふじが思いとどまらせようとするのですが、みさをは聞き入れません。

このとき同居している広告文案家の竹田が進み出て、『いま、誰かから「人間」という商品の広告文をたのまれたとします。さあ、ぼくはどんな広告文を書けばいいのか。』と突拍子もないことを言い出したのです。

長女みさをに人間の命の尊さを短時間で納得させるために、井上ひさしは広告文案家竹田の言葉として、今でいうキャッチ・フレーズのスタイルで語らせるのです。この言葉の要点を引用します。

『この宇宙には・・・惑星の数は約四兆。その四兆の惑星のなかに、この地球のように、ほどのよい気温と豊かな水に恵まれた惑星はいくつあるのでしょう。・・・だからこの宇宙に地球のような水惑星があること自体が奇蹟なのです。・・・地球にあるとき小さな生命が誕生しました。これも奇蹟です。その小さな生命が数かぎりない試練を経て人間にまで至ったのも奇蹟の連続です。・・・こうして何億何兆もの奇蹟が積み重なった結果、あなたもわたしもいま、ここにこうしているのです。・・・人間は奇蹟そのもの。・・・だから人間は生きなければなりません。

「偶然」の重要性を表現するために、この「涅槃寂静の世界」を立ち上げたのですが、上記の引用文を読んだときには、まさに脱帽なのです。特に最後の下線部分のキャッチ・コピーは、説得力の明解さという意味で、すごい言葉だと思いました。それと同時に、井上ひさしの確率論的な視点にも驚かされたのです。

前回、道元の「現成公案」の巻での、魚と水、鳥と空(そら)、すなわち生きものとその環境との関わりについて取り上げました。

道元は、この生きものとその環境とは、それぞれ個々で成り立つものではなく、全体として一体として成り立っているということ、すなわち全体としての視点で捉えているのでした。

一方、井上ひさしは、この生きものと環境とが一体として成立するまでの、無量の年月における偶然の巡り合わせの連鎖の驚異という視点で捉えているのです。すなわちこの宇宙の無量の惑星の中で、水や空気そしてほどよい気温に恵まれた地球が存在する偶然(確率)、そしてこの地球上に生物が誕生した偶然(確率)、そしてこの生物が長い年月の試練を経て人間に至るまでの偶然(確率)、そしてこの偶然(確率)の連鎖によって、今・ここにいるあなたと私とその環境が共存している偶然(確率)を、「奇蹟」という言葉で表現しているのです。

この境地は、自己とその対象(他者や環境)を区別して認識するなどの起こる以前のことなのです。まさにこの境地は「涅槃」の境地ではないでしょうか。 以上のように、井上ひさしのすごいところは、十二縁起で無明から苦を導くようなスタイルで、偶然(確率)の連鎖を用いて、宇宙から人間に至るまでの偶然の巡り合わせの道すじを通して、「いま、ここにいるあなたと私」あるいは「生命の尊さ」の意味を「奇蹟」という言葉で明解に説明したことです。

2010.7.18