「華厳経の風景」以来これまでの考察では、仏教思想と決定論的カオスという全く異なる分野あるいは思想と現象のようなものを、一つの土俵の上にのせ比較対照し、類似点の対応関係を見つけ出すという作業をしてきました。
そしてこの両者の出会いは、良縁であり、難解な仏教思想を現代感覚で理解する上で役立ったのです。この対応の一つとして、「涅槃」は「偶然」を重視した世界であるという結果を得たのでした。今回はこれが何を意味するかを考えます。
この世の中は必然と偶然とが混在して成り立っています。ここで重要なことは、我々が必然に重点を置いて世の中を見るか、それとも偶然に重点を置くか、あるいは、いずれにも偏らないで「中道」の立場で世の中を見るかということです。これらの視点によって、日常生活でのものの考え方や生涯の生き方が大きく変わると思えるのです。
ここで、せい(所為)とは、広辞苑によると『この語句をうけて、それがある物事の原因・理由であることを示す』とあります。すなわち縁起で、因や縁を認識することなのです。
前回考察したように、間違った認識をすると、戯論すなわち無意味で利益のない議論になるのです。
また「まえがき」でも考察してますが、人間は良い事は自分のせい、悪い事は他人のせいに解釈する傾向があるのです。これは仏教でいう「煩悩」や「執着」に相当するものでしょう。すなわち「煩悩」や「執着」は、「必然」としての縁起の判断による、自己の思い上がりや思い込み、また他者への怒りや妬み、そしてこの判断自体の誤りや迷いに、起因するのです。
このことからも、「煩悩」や「執着」を消滅する「涅槃」は、「必然」ではないのです。
何かが起こったとき、それを誰のせいにもしないで、偶然のめぐり合わせの好・不運として受け容れる生き方はできないものでしょうか。これが人間の「安心」の根源ではないかと思えるのです。
よくは知りませんが、仏教でいう「ありのまま」とは、こういうことを言うのではないでしょうか。
これも不勉強で正確な解釈はわかりませんが、道元の「正法眼蔵」の中の有名な「現成公案」というのは、魚は水に、鳥は空に、何らかの必然性など考えることなく、すべてをゆだねることが、魚や鳥は自由自在に生きていけるのと同じように、この現実の世界で、自己を忘れ、自己が他者や環境との境界をとりはらって、全体の中にあるものとして「ありのままに」受け容れることが、おのずから大局的な見方ができるという意味ではないでしょうか。
また「大修行」の巻には、因果を超越した「大因果」という言葉が出てきますが、これは悟り(果)を求めて修行(因)を行うことを批判して、結果としての悟りを求めない「只管打坐(しかんたざ)」を主張した生き方です。
この結果を求めない生き方は、偶然の巡り合わせと解釈して「ありのまま」に受け容れる生き方と相通ずるように思えます。これらは人間のこころの安らぎ、すなわち寂静を得る究極の方法なのでしょう。
何らかの目的にかなった結果を出すために、我々は因や縁を選ぶわけで、「必然」を前提にしているもので、これは知性的分別の世界です。
一方仏教でいう無分別・無作為の世界は、この言葉の意味からも「偶然」に対応するもので、結果に執着するものではないので、無目的といえます。
鈴木大拙は「仏教の大意」の第二講「大悲」(鈴木大拙全集、第七巻、(株)岩波書店、1999年12月)で、この無目的性の重要さを記述していますので、この一部を引用させていただきます。
『無畏(むい)は無目的的である、目的を持つとそれに限られてしまうものです。限られると必ず小心となり、計算的になる、大悲心はその「大」を失って人間的となり自ら限ることになるのです。
・・・
無目的的生活には何の面白味があるか、・・・無意味なもの、あってもなくてもよいものだと、批判してしまいます。人間は元来分別性に出来ているのだから、たとえその底に無分別があっても、既にそれが無分別なら、ほうっておいて好いではないかと考えられます。
しかし人間には、このあってもなくてもよい無分別底におちつかないと、不安の絶え間がないのです。
今庭に下り立っている雀を見ても、「あれは何を食べに来たのか」とか、・・・などと、その他千百の問題を出すことは大いに知性的啓発の機会を与えます。結構ではあるが、ただそれを見て神の栄光を称(たた)えるだけにしておけないであろうか。
何もかもただそのままに受け入れて、「雨が降ってもよし、日が照ってもよし」としておくわけには行かないか。人間の心の奥にこういうことを言わせるものが、また別にあるのです。』
最初に出てくる無畏(むい)とは、安穏(あんのん)で畏(おそ)れの無いことの意味ですが、これを保つには無目的であることを強調しています。
そして大拙のいう人間の底とは、かって人間が大自然の中で生活しはぐくまれていた時代、現代人のように何でもかんでも理由付けして生活していたわけではなく、自然の影響をそのままに受け容れて、巡り合わせの運・不運として生活していた生き方が、人間の遺伝情報の内に取り込まれているということなのでしょう。
前回「現代は戯論の時代」で考察したように、現代人は何でもかんでも理由付けしないと、気が済まないのですが、逆に一切の目的を意図しないで、そのままに受け容れることによる安穏の記憶のこん跡が、人間の心の奥にあることに気づきなさいと大拙は主張しています。
仏教で私が興味深いと思っていることの一つに、「反復繰り返し」の構造が意外に多いことです。これは仏典の記述だったり、禅問答であったり、修行の方法であったり、真言密教の真言であったりです。
既に「重重無尽の行き着く世界」で考察していますが、合わせ鏡の無限の反射の繰り返しのように、一見無限に同じ形が映し出されるように、同じことの繰り返しと思われるのですが、実際は違うのです。世の中には完全な鏡など存在せず、鏡の表面には僅かな歪みがあるために、反射のたびに形は少しずつ歪んでいくのです。このため無数の反射後の形は予測できないのです。
普通は、見るに耐えない無惨な形になると想像するのですが、実は「華厳経の風景」のような秩序ある美しい画像が生まれる場合もあるのです。まさに「偶然」の巡り合わせの妙なのです。これを洞察した法蔵のすごさなのです。
すなわち「反復繰り返し」とは、同じことを繰り返すのではなくて、「偶然」のめぐり合わせを繰り返すことで、少しずつ変化する進化の仕組みだったのです。そしてこれを数学的に表現したのが、今まで多くの時間を費やして多面的に考察した決定論的カオスを生み出す仕組みとしての非線形性の漸化式(ぜんかしき)でした。ここで非線形性が鏡の表面の歪みに、漸化式が合わせ鏡の反射の繰り返しに対応するのでしょう。
仏教でも「漸悟(ぜんご)」という言葉があるようで、これは一つ一つの修行の反復繰り返しの積み重ねで、少しずつ悟りの境地に近づいて行くという意味でしょう。
ここで自然界に目を向けますと、日本などの自然は、毎年毎年、四季の反復繰り返しで成り立っているのです。この四季はその年の気候の変動に支配されるのです。この変動は鏡の歪み、すなわち非線形性に対応するものです。
事実、日本の自然は美しい秩序が至るところに存在します。これが、無限に近い反復繰り返しで形成された自然界が決定論的カオスの宝庫であるという由縁なのです。ここで重要なことは、この決定論的カオスは、必然と偶然の狭間にあり、どちらかというと偶然に近いのです。
次に人間についていうと、自然から生み出された人間は、生まれ、成長し、そして死という過程を何代にも繰り返して、現代の人間が形成されたわけです。ここで人間が生まれるためには、偶然によるめぐり合わせの良縁があったためで、また社会で生きていくためには、これも人と人との縁の巡り合わせが決定的な要素となるのです。このように人間が進化していく過程も、反復繰り返しによる巡り合わせなのです。
そして誰一人として顔や指紋など同一なものがないのは、決定論的カオスの特徴ともいうべき「初期値に対する鋭敏な依存性」のなせる技なのでしょう。
人間の内面的な思考においても、普通の考えや判断を超越(飛躍)した独創的な考えは、人間が普通想像もつかないような事柄どうしの偶然の巡り合わせによって生まれるのです。これについては「決定論的カオスを西田哲学から人間の場合に類比する」で、既に考察しています。
すなわち反復繰り返しの構造は、いわばフィードバック回路そのものであり、人間でいえば、西田幾多郎が主張する「行為的直観」に対応するものです。ここで行為とは、外面的には人間が外界に何らかの働きかけをすることなのですが、内面的には頭脳の中で直観をともなって繰り返し繰り返し思考を巡らすことなのです。
ここで重要なことは、より飛躍的な発想をするためには、非線形性の強いすなわち多くの矛盾を抱えた多彩な頭脳である必要があり、西田がいう「絶対矛盾的自己同一」性の豊かな頭脳である必要があるのです。
以上のように、この世の中、自然界も人間社会も「偶然」の巡り合わせで成り立っている割合は、かなり大きいのです。現代の情報化社会とあいまって、巡り合わせの「偶然」の重要性を改めて見直す時代の到来が予感できます。