西田の「行為的直観」の空間的拡張

西田哲学の中でこの「行為的直観」はきわめて重要な意味を持っと考えています。 すなわち人間が創造的に芸術作品を含めた物を生み出すときの基盤そのものだからです。この行為的直観の実践の範囲を広げることによって、創造作用をより豊かに、かつ強化することを試みるものです。

今回も「仏教思想と西田哲学を「通信と制御」の視点から見る」のシリーズとして、通し番号を付けて考察します。

(11)人間を電話で輸送するというアイディア

再三でてくる映画「マトリックス」の話なのですが、なぜ再三でてくるかというと、マトリックスの世界とは、仏教思想でいうと「識」のみの世界すなわち唯識の世界、ウィーナーの思想でいうと、「情報と制御」のいわば究極の世界だからです。

この映画の中で難解なのは、この「マトリックスの世界」と「現実の世界」とを往き来するときに、マトリックスの世界での町の公衆電話が利用されるのです。なぜ人間が電話で移動できるのか、この映画を最初に見たときには理解できなかったのです。

これに関して少し考察をしてみましょう。マトリックスの世界は、先にも述べましたが「識」のみの世界すなわち情報のみの世界として成立しているのです。この意味は、人間の本質を肉体という物質ではなく、精神と物体の形態などを表現できる情報として扱われているのです。従ってマトリックスの世界への出入りに関しては、身体の動作は情報として処理されるので、物質としての人間の肉体は必要なく、下図のような図式となるのでしょう。

図8
図8. 「マトリックスの世界」と「現実の世界」との橋渡しとしての電話線

「現実の世界」の移動基地としての「ネブカドネザル号」では、人間の頭脳の中の一切の情報をプラグを介して電脳に取り込み、電話回線でマトリックスの世界へ伝送するのでしょう。 このときネブカドネザル号に残っている人間の肉体は、まさに魂の抜け殻のような状態なのです。

ここで、なぜこの情報をコピーしておかないのかとか、なぜ携帯電話が利用できないのかの疑問が生じますが、フィクションなので細かいことは無視するとしましょう。 ただこれは推測ですが、マトリックスの世界での公衆電話には、モーフィアスの同志によって、 あらかじめ密かに、マトリックスの世界のプログラムを変更するための電脳が仕込まれているのでしょう。

さて、ここで話が変わります。1950年代に書かれたノバート・ウィーナーの著書「サイバネティックスと社会」(池原止戈夫 訳、(株)みすず書房、1954年1月)の中の「言葉としての個体」という章の中に、次のような記述があります。

『人体の個体性は石のそれではなく焔のそれであり、物質の一片の個体性ではなく形態の個体性である。この形態は伝送されることも、変形されることも、二つに増殖されることもできる。・・・
・・・我々の肉体的及び精神的の生まれながらの権利を運ぶ遺伝子の一つが分裂するときには、生体組織のパターンの自らを二倍化しようとする力によって条件づけられた物質の分離が起こる。こんな訳であるから、国から国へ電信を送るに使うことが出来る通信伝送の型式と、例えば人間のような生物にとって少なくとも理論的には可能な伝送の型式との間には、根本的な絶対的差異は存在しない。

それで、よく子供が考えるような、汽車や飛行機ばかりではなく電話で旅行するという考えは、現実にははるか遠いとはいえ、本質的に不合理なことではないということを認めるとしよう。勿論その困難さは法外に大きい。・・・
・・・

私がこれまで述べてきたことは、 人間を電信で送る可能性についての科学小説を書きたいからではなく、通信の基礎概念は情報文の伝達であって物体や情報文そのものの物としての伝達はこの目的を達する単に一つの方法にすぎないことを、理解する助けになるからである。

近代社会に於ける交通の重要性に関するキップリングの考察は、人間の体の輸送よりも、 人間のもつ情報の伝達の方に圧倒的な重点を置くような交通の見地から、再検討されるべきである。』

ここで、個体性とは、個物(自己)の独自の性格とか性質のことと思われます。

1950年代といえば、日本では終戦後のどさくさの抜けきらない時代に、 物質とパターン情報を石と焔でたとえたユニークさもさることながら、人間の本質を遺伝子のようなパターン情報であるとし、 通信で伝送することが可能であることなど、ウィーナーはすごいことを考えていたのです。

このような考えが、人間が世界中を飛び回ってコミュニケーションするよりは、人間は何処にいようが、 その情報(表情や動作などの身体の3D画像も含めて)を世界中に伝送できるインターネット通信のほうが、エネルギーの消費が少ないという現代の情報化社会を実現したのでしょう。

(12)「行為的直観」の空間的拡張

人間が何らかの行為をすることが可能な空間的な範囲は限られた範囲であり、また人間が直観的に物を見る空間的範囲も、千里眼でもない限り限られた範囲です。そして『見ることなくして行為というものはない』といわれるように「行為」と「直観」とは一体なのです。

このように人間が「行為的直観」を実践する空間的範囲は限られているのでしょう。これは西田のいう「真の自己」としての『我々がここに於いて生まれ、ここに於いて働き、ここに於いて死に行く現実の世界』は、 人間の移動範囲が広いほど、 広くなるのです。

題目「なんとユニークな「唯識」のアイディア」で考察したのですが、そこではモーターパラグライダーをあやつるカメラマンの多胡光純(たごてるよし)さんのことを紹介しました。

人間は羽をもちませんが、モーターパラグライダーによって、鳥の視点で現実の自己の世界を見ることができ、肌で感じることができるのです。誰もが体験したことのない「行為的直観」を実践できるのです。そして多胡さんが見た世界は、一面の紅葉の山並みの中に融け込んだ人々の生活であり、「人の数だけ紅葉がある」という「唯識」の情景だったのです。

このように、いろいろな道具や機械と一体化することによって、 「行為的直観」の空間的拡張が可能になるのです。

さらに将来は、ウィーナーのいう「通信と制御」の観点から新たな空間的拡張が可能かもしれません。ここで人間の「行為」と「直観」あるいはこれを一体化した動作は、 人間の身体的な動作を伴った感覚であり、情報で取り扱えるのです。

これを考察するのに、 また西洋の映画を引き合いに出すことになります。実は「華厳経の風景」を立ち上げて、まもない時期に記述した「唯識思想と電脳が生み出す画像」の最初の書き出しで引き合いに出したのが、映画「トータル・リコール」でした。これは火星周遊旅行に”シュワちゃん”が参加する話なのです。ただし人間が実際に火星に行くのではなくて、人間が火星で体験するであろうあらゆる情報を順番に、人間に感覚として与えることによって、周遊旅行を楽しもうというバーチャル・リアリティの装置に応募することなのです。

ところがこの「仮想現実の世界」と「現実の世界」との区別が付かなくなって、あるいは「仮想現実の世界」と知りつつも、”シュワちゃん”持ち前の肉体的アクション行為が飛び出してしまうところが、この映画の見所なのです。

これはまさに西田のいう「行為的直観」『見ることなくして行為というものはない』(「論理と生命」の(四))そのものでしょう。

以上、仮想現実的な感覚を与える装置を利用することによって、 「行為的直観」を実践できるものと考えられるのです。 従って前回の(10)の図7. 行為的直観の世界(真の自己)における内と外、主観と客観の合一の仕組み は下図のように表せ、 「情報」という概念から行為的直観の世界を拡張できるのです。

図9
図9. 行為的直観の世界(真の自己)の空間的拡張

(13)「行為的直観」の電脳空間への適用

「華厳経の風景」のエピソード編「15.決定論的カオスによる覚醒(かくせい)」で表示した図を、 「行為的直観」の立場から再度表示します。

図10
図10. 決定論的カオスからの直観的創造

この図は、 まさに西田の「行為的直観」そのものであり、電脳の中での数値実験で生み出される決定論的カオスに潜む美的な情報を如何に引き出す(ディスプレー上に表す)かというときに、その電脳を操作(行為)しているときの人間の直観は重要な手がかりとなるということです。

これは電脳と人間とが一体化して、 「行為的直観」を実践するものなのです。人間が電脳に何らかの働き掛け(行為)を行い、 電脳がこれに反応してディスプレー上に何らかの表現作用をし、 この表現作用に誘われて、 行為が惹(ひ)き起こされるのです。 何らかの働き掛けを行うとは、電脳に種々の条件を入力することなのですが、 どのような条件を入力すべきかは、 現状では解明されていないので、 段階的に試行錯誤を積み重ねていくときの直観がきわめて重要な役割を演ずるのです。

「行為的直観」の基となった「善の研究」の第一章「純粋経験」の後半に次のように記述されています。『判断が漸漸(ぜんぜん)に訓練せられ、 その統一が厳密になった時には全く純粋経験の形となるのである。 例えば、 技芸を習う場合に、始めは意識的であったこともこれに熟するに従って無意識となるのである。』

電脳に働き掛けるとき、この無意識の境地になったとき電脳と一体化できたことになるのでしょう。このようにして、まだわかっていない決定論的カオスに働き掛けができるのです。

2009.9.13