なんとユニークな「唯識」のアイディア

「唯識」=「電脳」

五世紀ごろに何で「唯識」のようなアイディアが生まれたのか、 私のような凡人には全く理解できません。この中でも最もユニークなのが「阿頼耶識(あらやしき)」でしょう。

ところで電脳は、 内部で情報をつくり出したり、情報を感知するなどの情報処理の機能をもつ機械で、唯識そのものと言ってもよいのです。すなわち電脳も唯識でいう「識」で構成されていて、「唯だ識のみ」なのです。

少し専門的になりますが、この識について、 電脳と唯識を具体的に比較してみましょう。唯識の識は、 全て「刹那滅」で、生じては滅し、生じては滅するものなのですが、この間隔が短いほど、 時々刻々の現象の変化により敏感に対応できるのです。これは電脳でいうと、 処理速度を決めるクロック周波数に相当するものでしょう。

情報(外部で、あるいは内部でつくられたいずれでも)を入力(検出)する機能は、「前五識」、そしてCPU(中央処理装置)は主に第六識の「意識」に対応するでしょう。記憶装置は「阿頼耶識」です。ただし「器世間(きせけん)」のように周囲の環境を直接表現する便利な機能をもつものはありませんが、このような機能はCPUと記憶装置に保存されているプログラムで処理されます。

また阿頼耶識に保存されている種子(しゅうじ)を薫習(くんじゅう)するような機能は、 入力機能とCPUの機能とによって処理されます。これは「現行(げんぎょう)」の「七転識」によって処理されますので、電脳とよく似ているのです。

電脳では、各機能を実行するためのCPUでの処理の具体的な手順は、あらかじめ記憶装置に保存されているプログラムによってなされるのですが、このプログラムは、あらかじめ薫習されている種子の一群のようなものなのです。

なお、電脳には、直接的な意味での「末那識(まなしき)」に対応する機能はありません。このことは電脳はより仏に近い純粋な存在なのですが、 間接的には人間がつくるプログラムによって、 多かれ少なかれ電脳に入力されています。

電脳は人間の頭脳の機能の模倣あるいは拡張を目標につくられたもので、唯識と類似するのは当然なのかもしれませんが、この唯識が五世紀ごろのアイディアであるとは驚嘆に値します。

以上のように、電脳も「唯だ識のみ」の存在なのです。そしてこの電脳から、なぜ「華厳経の風景」のような画像が生まれたかについては、重重無尽に対応する漸化式のプログラムを試行錯誤で操作しているとき、ある刹那に「器世間」のような機能が偶然につくられたとしか、説明のしようがないのです。

電脳も、パソコン(古くはマイコン)といわれるように、一人一人その世界があるのです。まさに「人人唯識(にんにんゆいしき)」同様、「人人電脳」なのです。

自己相似集合図形と「唯識」の世界観

まず、自己相似集合図形の特徴を復習してから、唯識と比較していきます。「空」の基本構造としての自己相似集合図形の「自己」とは、 今まで展示した例でいうと、円であったり、あるいは三角形、四角形、五角形などの多角形でありました。図1は、「24. 自己究明 / 視点による自己意識の違い」で展示した六角形の例です。

このように自己相似集合図形の自己とは、 図全体の構成要素の基本パターンであり、図全体の構造と比較するときわめて単純な構造です。しかしこの単純な基本パターンで全体の構造が決まるのも事実です。

次に、この図の構造は、 自己が自己と相似の他者で囲まれ支えられている依他起性(えたきしょう)の関係で成立しています。すなわち自己相似集合図形の構成要素は、相互関係のみによって成り立っており、 「縁起」の世界であり、無自性です。これは前回検討した三性説の依他起性に対応します。そしてこの構成要素を個物とすると、これらを包括して美しい調和を示す図全体は、円成実性ということになります。

人人唯識
図1.人人唯識

以上自己相似集合図形を介して理解できるように、「唯識」は大乗仏教の「空」思想を合理的に解き明かしたものと思われます。 前回参考にした竹村牧男 著「知の体系」((株)佼成出版社、平成八年六月)を参考にして、さらに考察を進めます。

『・・・唯識の根本経典である「解深密教」には、有名な次の句があります。「識の所縁(すなわち対象)は唯だ識の所現のみなり」 識が見たり聞いたり、認識しているもの(識の対象)は、その識自身の現わし出したものだ、というのです。この全体が、識なのです。・・・』(第2章)

唯識で大変ユニークなのは、我々が日常認識している外界の対象は、実は自己の内部の世界にあるというのです。このことは、日常外部の状況は意識的あるいは無意識にしろ、常に取り込んでいますので、自分の世界をある程度イメージすることは可能であり、特に違和感は感じないのです。

このことを図1の自己相似集合図形に対応させますと、自己の基本形は六角形で、 図全体の内の一部分である、どのような大きさの六角形でもよいのですが、これを自己と見なしますと、その内部の構造と図全体の構造は同一なのです。すなわち外界と自己の内部の世界は同じなのです。このように唯識の主張は、自己相似集合図形でも説明でき、これが唯識のユニークさなのです。

『・・・阿頼耶識は、器世間と有根身(うこんしん)と種子の三者を、相分としているというのです。ということは、環境と身体と、 そして各識(心的活動)の因とを、阿頼耶識が持っているということです。・・・
・・・
・・・いわば、身体(器官)を焦点として、 環境と主体とが交渉する、その全体が、阿頼耶識によって維持されており、その全体が一人一人、個だというのです。・・・よく唯識では、 人人唯識といいます。・・・』(第3章)

これは自己の内部でつくられる世界をさらに具体的に説明するための阿頼耶識の アイディアで、人の数だけ環境があるのです。科学の世界でも、特定の個物についての問題を解くときには、その個物の周囲環境を、境界条件として設定して解くのです。個はその周囲環境によって生かされている訳で、 周囲環境の存在しない個などはあり得ないので、周囲環境と一対になった個は合理的な考えなのです。

これについても、自己相似集合図形と対応してみます。図1では、 適当なブロック毎に色分けしています。同色の1ブロックが一人の人間、すなわち自己と見なし、そして自己の内部の一部を、自己の内面でのイメージとしての周囲環境と見なすことができます。あるいは、同色の1ブロックが自己を生かしている周囲環境であり、その内部の一部に自己が存在すると見なしてもかまいません。いずれにしても、同色の1ブロックが自己の世界なのです。その他の各ブロックは当然それぞれ他者の世界ということになります。図全体は、人の数だけそれぞれの世界が存在している社会であり、これは美しく調和のとれた事事無礙法界であることは図から理解できます。

以上、もうみなさまは気がつかれていると思いますが、自己相似集合図形で、唯識の世界観がなんら矛盾なく対応できるのは、「円成実性」すなわち「真如」においては、 自他は平等であること、 「自己と他者は相似である」ことが根底にあるからです。

このように、「空」の基本構造としての自己相似集合図形は、唯識の世界観とも対応できるのです。「自己はあらゆる他者と一体性かつ関係性の中にある」ということを、図で表現したのが自己相似集合図形なのです。

以上唯識の世界観は、きわめてユニークですが、他の大乗仏教とも整合性がありかつ合理的な考えなのです。

『天空の旅人』と唯識的世界観

『天空の旅人』とは、モーターパラグライダーをあやつるカメラマンの多胡光純(たごてるよし)さんのことです。最近では、「天空の旅人にっぽんの秋を飛ぶ」という題で、11月24日午前8時55分からNHK総合テレビで放映されました。この作品は、一見日本の各地の秋の紅葉の風景を、単に空から写した映像のように思われますが、実は少し違うのです。

これは前回考察した「ズームアウト」に対応できるもので、「森を見て、木を見ず」のスタンスなのです。すなわち地面で木に近づいて、その紅葉を写したものではないのです。

一面に紅葉した山並みだけでなく、その山すその森林の中に点在する神社仏閣であったり、広大な高原の牧場であったり、あるいは里山の村落であったりするのです。人と自然とのいとなみが鮮明に写し出されているのです。

これがモーターパラグライダーによる天空からの視点の最大の特徴なのでしょう。自然のおりなす美しさだけでなく、そこにくらす人々の穏やかな生活が一体化されているのです。紅葉とそこにくらす人々との関係・・・「人の数だけ紅葉がある」というナレーションを聞いたとき、私の頭に「唯識」がひらめいたのです。

ここで、天空の旅人、多胡光純さんのウェブサイトで、2003年10月に書かれた手記「空への思い / 大地のストーリーと天からのイメージを結ぶ」の一部を断続的に引用させていただきます。

『・・・

初めは雄大な極北の川に憧れて、自分自身の力でキャンプをする充足感に満足していたが、旅を重ねるうちに、僕の旅に現地に生きるデネインディアンやマッケンジーイヌイットが登場してきた。彼らの話を聞くうちに、今まで見て感じてきた極北の大地の風景が変わって見えてくるようになった。風景に彼らのストーリーを重ねると、これまでの世界がぐっと奥行きと幅を持って見えてくるようになったのだ。・・・
・・・けれども、いくら川の写真を撮っても満足できるものはなかった。川の流れがあって、そこに生きる人がいる。景色単体を見るのでなく、彼らの生活単体を見るのでもなく、そのふたつが融合した世界観のイメージが欲しいのに、それが表現できないもどかしさを感じていた。
・・・
・・・2002年の極北行きの予定が迫ったある日、僕はモーターパラグライダーという乗り物に偶然出会った。・・・
・・・
空からの眺めは、まさに僕が感じたい表現したかった世界だった。
空を飛ぶと同時に、大地のストーリーを表現するに値するイメージを手にすることができた。ストーリーが生まれる大地を空から撮る。自分の表現スタイルを手にした瞬間だった。』

自然(環境)と自己が一体化しており、かつ他者も自己と一体化している唯識的世界観を、あえてもう少しやわらかい言葉で表現したら、自然の中にとけこんだ人々の安らかで生き生きとした生活の息吹が感じられる情景、それも時々刻々変化する新鮮な世界なのでしょう。

なお「12.「彼岸」/ マンデルブロー集合」の(追記)で記述したマダガスカル島の針の山のような断崖絶壁、「ツインギ」大地を撮影したのも多胡光純さんだったのです。

2008.12.7