最近特に印象に残ったことに、スーパーコンピュータや科学技術関連の事業仕分けでの「なぜ、世界で一番にならないといけないのですか」という一見きわめて素朴な質問やその処理に対し、ノーベル賞学者や大学関係者が抗議をするという、大変興味深い一幕がありました。
従来、科学技術関連や教育に関する予算については、日本人の誰一人として反対する余地などなく、すべて「肯定」という背景で処理がなされてきたのです。しかし物事を高度なレベルに進展させるための常套手段として、「肯定」と「否定」すなわち「促進」と「抑制」の機能は、必要なことなのでしょう。
どこの学会でもよくあることだと思うのですが、討論会場に門外漢が入ってきて、とっぴな質問をすることです。当然座は一瞬しらけるのです。ここで重要なのは、座をとり仕切る座長の存在で、ユーモアをまじえてやさしく説明し、対応することで、しらけていた座はなごやかな雰囲気に変わり「こんな考え方をする人もいるのか」と緊迫した討論の清涼剤となるのです。
仏教については門外漢である私の今までの素朴な主張に関し、専門筋の方々から見れば、いろいろ不満な点も多々あると思われますので、どうか適切な御指摘を賜りたく思っています。
仏教については門外漢である私が、なぜ仏教に興味を持ったかといいますと、仏教には宗教的なイメージがきわめて少なく、自然科学に整合性があることです。この理由は、仏教とは、人間の心の作為を滅却して覚りによって生ずる智慧にその基盤を置いていると、私は解釈しているからです。
今までの考察はすべて、このような観点からなされたもので、古典的な仏典にこう記述されているので、こうあるべきであるというような論議に、私が関与する余地は全くないのです。
この覚りの前提となる、人間の作為を一切加えない「あるがまま」の状態、西田幾多郎はこれを「純粋経験」といっていますが、これが人間の心のあり方を考える上で、きわめて重要であることを、今回は検討します。
今回のテーマは人間と自然科学なのですが、まずはじめに自然と人間について考察します。
「心は巧みな画工のようなもの」で少し考察しているのですが、人間は自然から生まれ、長期間自然によって育まれたもので、人間は自然界を構成する一要素だと思っていました。したがって学生時代から、人間と自然とを区別するような思想にはあまり関心がなかったのです。特に自然と人間とが対峙するなどということは、人間の思い上がりもはなはだしいという思いがその根底にあったためでしょう。
私の通っていた大学は、国立大学の先生の定年後の受け皿でもあったため、幸運にも大学で、サイバネティックスの思想や理論の講義を受ける機会に恵まれたのです。
実は日本では訳あって、サイバネティックスの思想はあまり普及しなかったのです。当時の知識人の多くは、現在のような電脳による情報化社会が到来するなどということは夢にも思っていなかったのでしょう。
ここではサイバネティックスの概念をわかりやすいように具体的な例で説明します。
自然について例えば、山間に存在する湖の魚に着目するとします。この湖に住む魚の数が少ないときは、十分な餌に恵まれ魚は時間の経過とともにどんどん繁殖し増加するでしょう。ところが増えすぎると、餌の奪い合いが起こり、また排泄物などで湖は汚染され、その結果として魚の数は減少をたどることになります。そしてある下限の数に近づくと、餌や環境は徐々に回復をしはじめ、最初の状態の近くに戻ります。これが自然界での「促進」と「抑制」の機能をもつフィードバックの概念です。
このように上限と下限の間を変動を繰り返すのですが、この周期や数の変動幅は定常ではなく、予測は不可能であり、一つ間違えば絶滅の危機もあるのです。
このような現象のおおまかな挙動は、簡単な漸化式で表現でき、「空海密教のカオス的世界観」で考察した、生物の生存数の時系列変化を表す式でした。式で表現できても、初期の条件のきわめてごく僅かな値の違いで、大きく結果が変動するので、実際上は予測が不可能なのです。これを決定論的カオスといいます。同じようなことは、地球上での気象の変動などにも言えるのでしょう。
さて上記の「山間の湖の魚のたとえ」を人間の場合に適用できないでしょうか? 現在地球上には、容量的にやや過剰ぎみの人間が生活しているのです。近い将来、食料や環境汚染が大問題になることは必定です。人間が自然の産物である以上、当然人間は自然の法則の枠組みから逃れることはできないのですが、ただし魚と同じ運命をたどる必要はないのです。ここに人間のあり方を考えるよりどころがあるのでしょう。すなわち人間の心のあり方を考える場合にも、「自然の究明」は必須の条件なのです。
人間と他の生物との決定的な違いは、ノバート・ウィーナーも指摘しているように、「学習」とそれにともなう新たな創造なのです。そしてここに仏教の将来もあるのではないでしょうか。
人間と自然とが一体化する利点は、人間が自然界の一要素であることを肌で感じることであり、具体的には、人間の心を静寂に保てることと、自然界を構成する仲間である他者や他の生物と如何に協調すべきかを、自然の仕組みから洞察することも可能であり、さらには自然環境の変化を敏感に感じ取れることなのです。
サイバネティックスの概念が公表されて以後、人間や人間社会と自然現象との関わりに、多くの人たちが目を向けるようになったのでしょう。
不勉強で日本の仏教の発展史もよく知りませんが、自然に対する感性の豊かさを遺伝子にもつ、日本の仏教を支えた僧侶たちは、仏教思想と自然現象との整合性を直観的に把握していたはずです。
古典的な仏典の内容を解説した書を読むと、科学的に現代でも通用するような洞察力のすごい事柄も含まれていることに驚かされるのです。これはたぶん、覚りによって得られたと推測されます。
覚りは人間の内面すなわち心や頭脳の作用で起こるもので、人間の外面的なふるまいなどをいくら観察しても、この超越的な概念を生み出す仕組みは見つけ出し難いはずです。
おそらく、古典的な仏典には、覚りについての仕組みの十分な記述はないはずと思われるのです。
先にも記しましたように、自然は単に美しいだけではないのです。自然には、人間の常識では思いもつかないようないろいろな不思議な現象が満ちあふれているのです。すなわち自然はカオスの宝庫なのです。たとえば自然は生物の中でも飛躍的な人間を生み出したのです。
この自然の仕組みを観察した方が、飛躍的な事物を生み出す仕組みの解明に役立つのではないかと考えられるのです。この自然の仕組みの観察結果を長年積み上げたのが自然科学なのです。
ちなみに、古典的な自然科学の代表的なのは、ニュートン(1642〜1727)の力学でしょう。これは、宇宙の天体の運行などに関する物体の運動の法則、すなわち力と運動の関係の発見です。
ニュートンは、何かが時間的に変化する過程を数学的に表現することを考え、時間に対する距離の変化の割合である速度やこの速度の変化の割合である加速度の概念を導入し、微分方程式で記述する手法を確立したのです。
あえていえば、仏教でいう「諸行無常」を数学的に表現する手法を考えた人なのです。「重重無尽が行き着く世界」でも考察したように、時間的に変化する現象を表現するには、古くは数列を用い、この関係は漸化式で表現できるのでした。そしてニュートン以後は微分方程式が用いられたのです。ただし電脳で数値計算する場合には、普通微分方程式を漸化式の形式に変換して実行しますので、現在でも漸化式は健在なのです。
以上、時間的に変化する現象を記述するには、微分方程式や漸化式が用いられ、これを用いて問題を解決する仕組みを力学系(ダイナミカルシステム)といいます。
「華厳経の風景」の多くで考察している決定論的カオスは力学系すなわち漸化式から生み出されたのでした。 決定論的カオスとは、決定論は力学系(漸化式)を意味し、したがって力学系から生まれるカオスのことです。
宇宙の天体の運行を定める基本法則が、実は仏教の覚りの仕組みの基になるものであったとしたら、なんと夢のあることだと思いませんか。
ちなみに、「華厳経の風景」での考察の多くは、この二つを結び付けるために費やされたのでした。
さて、以上を踏まえた上で、人間の心のあり方を自然から洞察できる可能性について具体的に考察を試みます。
@ 天体の動きや気象の変化を感じ、自然が定常でないことを知るとともに、自然の移ろいに人間は大いに心を動かされ、そして生活も大きな影響を受け、人間は自然の一要素であることを知ります。
A 自然現象は、その多くは数学という言葉で記述することが可能なのですが、数学は現象の関係性のみを扱うもので、そこに実体はなくてもよく、そこで自然は関係性で成り立つ世界であるとも言えるのです。そしてこの一要素である人間も、この関係性(自然の法則)の枠組みから逸脱することはできず、変化していく過程の状態にあることから、何らかに執着しても意味のないことを知るのです。
B 自然を構成しているすべての要素について、密接な相互関係の中で、これらがそれぞれ生き生きと機能していることが、自然は最も美しい状態にあり、この中で生きる人間の心も最も安らぎを覚えることを、知るのです。
そしてこれらの知見を基に人間のあり方としては、人間を含めた自然の秩序を混乱させてはならず、すべてと調和して生きることであり、ここに倫理観や共生の思想が芽生えるのでしょう。ここで自然現象やその仕組みを観察することは、人間が自然の一員としての基本的な生き方を明らかにするとともに、人間と他の生物との生き方の違いをより明確にすることでもあるのです。すなわち人間らしさを模索するときにも、そのよりどころとなるのです。
さらに自然には、人間の思いつかない不思議な現象が宿っており、人間が何ら作為を労せずとも、この自然の法則を洞察し、これに則ることで、新たな創造が可能となるのです。
以上@〜Bの記述は、仏教でいう三法印、「諸行無常」、「諸法無我」、「涅槃静寂」に類似していると思われるのですが、如何でしょう。
すなわち仏教の現代的解釈とは、自然現象(自然科学)の視点から仏教を見ることだったのです。
現代社会は行き詰まりの様相を呈し、「意識の変革」が叫ばれていますが、人間が作り出した物質文明を享受し安住している人が多い現状では、簡単には進行しないでしょう。そこでこの方策として、社会の仕組みをやや強引にでも変える必要があります。この一つに大学教育があると思われます。
なぜ最高学府としての大学の教育で、文系と理系に分割する必要があるのでしょうか。たしかに先進国に追いつけ、追いこせの明治時代には、分割したほうが、時間的に効率よくこの目的を達成できたのでしょう。
現在は世界をリードする立場になったのです。どちらか一方のみを学習したのでは、いわば片輪なのです。人間としては、文系と理系の両輪を学習しないと完全とは思われないのです。文系と理系を融合させ一体化した教育は可能であると思われます。ただしこれを実行するには時間的な余裕が必要です。
ノバート・ウィーナーの記述では、人間が生涯の40%を学習に費やすことは自然であるとしていますが、大学の教育を1〜2年増やしてもよいのではと思われます。
一昔前に、交通事故防止の標語に「この狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」というのがあったと記憶しています。これを現在での「生き方」の標語として「この狭い地球、そんなに急いで何を為す」としたらどうでしょう。やや過剰ぎみの人間があまり急ぐと、いろいろな意味で摩擦が生じ、山間の湖の魚と同じ運命になりかねないのです。