2005年3月以来、仏教思想と共通点の多い複雑系の科学から生み出される画像「華厳経の風景」を中心として、仏教思想を現代の情報化社会の視点から解釈することを目標とし、思い付くままに展開し、考察をしてきました。
これらの各項目を総括すると、下記のように括れるのでしょう。
複雑系の科学は、単純化のための分析(分別)を主たる方法とするのではなくて、複雑なままに、すなわち「ありのまま」の自然現象に着目するもので、あたかも進化する生物のように、おのずから組織化し、秩序ある形や動きを生成していくようなシステム(系)を対象にしています。
この大きな柱の一つに、「決定論的カオス」理論があるのですが、これが「華厳経の風景」画像を生み出すことで、今までに数多くの考察をしてきました。 いろいろな視点から考察すると、それぞれを中途半端に理解したときは、「結局何だったの」になる可能性があるのです。最後にすっきりとさせるために、仏教思想の視点からストレートに解釈することを試みます。
「決定論的カオス」の「決定論」は、一般的には「必然」を、ここでは「力学系の法則」を意味し、「カオス」は「混沌」です。これらを仏教思想に対応させると「分別」([理性」)と「無分別」に相当するのでしょう。
この仏教思想での「分別」と「無分別」との関連については、鈴木大拙が詳細に検討しています。例えば、鈴木大拙の著作の中で、私の最も好きな「仏教哲学における理性と直観」(鈴木大拙全集、第十二巻、(株)岩波書店、2000年9月)でも、理性(「分別」)と直観(「般若」、「無分別」)との関連の説明が詳細に試みられております。
ここでは細かいことは省略しますが、複雑系の科学の「決定論的カオス」からの創造は、仏教思想の視点から解釈すれば、まさに鈴木大拙の主張する「無分別の分別」なのです。順序を「決定論的カオス」のようにカオスに重点を置けば、「分別前の無分別」ということになるのでしょう。
数学的カオスをフィルタリング(分別)することで、仏教思想に言い換えれば「無分別の分別」によって、「華厳経の風景」のような秩序をもった美しい画像が生み出されるのです。
仏教思想を現代的に解釈するとは、現代は科学技術全盛の情報化社会なので、この視点で仏教を見ることが必要なのでしょう。ここで情報化社会の主役でもある電脳の恩恵によって、複雑系の科学は実現されうるものなのです。そこで、科学的な思想といっても、特に電脳に関わる情報科学と複雑系の科学の思想を中心に仏教思想との比較照合を行ってきました。
私は仏教とは縁もゆかりもない者ですが、仏教思想に興味を抱くきっかけを作っていただいたのは、NHK教育テレビで2002年4月から一年間「ブッダの宇宙を語る」と題して、華厳の思想を講義して下さった竹村牧男先生です。このとき初めて、情報科学や複雑系の科学との相性が良さそうだとの感触を得て、インターネットで「華厳経の風景」を立ち上げる準備をし始めたのです。
ただし、立ち上げてから二年間ぐらいまでは、全くの五里霧中だったのです。仏教思想の根幹とは何で、それを情報科学や複雑系の科学の視点でどう解釈するのかの示唆を与え、導いてくれたのが、下記の(2)に示した人たちに関する書籍だったのです。
例えば、空海を「華厳経の風景」の元祖と記述しましたが、この理由は、空海の著書に記されているといわれている『真言密教は奥深いもので、文字では表現することは難しく、かりに図画を描いて悟らない人たちに図示するのです』という手法がきわめて印象的だったからです。
「決定論的カオス」を「不規則で不安定な挙動を示し、将来の状態が予測できない」と文章で表現しても、実際に知らない人にとっては、すっきりしないのです。これを図上でその挙動(軌道)を表示することで、初めてカオスの奇妙さや不思議さが実感できるのです。
また「華厳経の風景」のように、このカオスから新たに創造される画像もさらなる驚きを与えます。ここで、柳 宗悦が直観的に発見した仏教思想から生み出される美、「不二の美」、二元のない世界すなわち無分別、無作為の世界の美が注目できます。先にも述べた鈴木大拙による分別と無分別との関連の検討などからも、これが決定論的カオスの美を意味することが推測できるからです。
またこの画像が「曼陀羅」のような「自己相似性」があることも驚きです。西田幾多郎がいう自覚の構造『自己が自己に於いて自己を映す』からもわかるように、自己相似集合図形は、「自己の究明」を図で表現したものと考えられるからです。
以上、2005年3月以降約5年足らずの考察でしたが、複雑系の科学から生まれた「華厳経の風景」と題した画像を中心として、いろいろな視点からの関連付けにおいて、華厳思想はもとより、より広い仏教思想の観点から見ても、何らの矛盾はなく、むしろきわめて良縁であったと確信しています。