ナーガールジュナの「八不」とは、「ただ今生存中」

みなさまもご存じのように「涅槃」には、吹き消すことから「絶対的な静寂に達した状態」すなわち「死」を意味するとの解釈もあるのです。ただし肉体をも滅して永遠の静寂を求めることは、自己の究明を目標とする仏教に反することになるのでしょう。

このシリーズでは、今までの考察からも十分おわかりの通り、「滅」の状態の静寂ではなく、「生存」での平穏無事による静寂であると解釈してきました。今回は、さらにこの解釈を確実にすることを試みます。

大局的に見て、自然界できわめて数多くの生物が共存しているということから、生物には、どのような偶然に遭遇したとしても、たとえそれが自己と対立(矛盾)するような事物であっても、それを受け容れ共存できるような構造が備わっていると考えられるのです。このためには、開かれていて、入って来る事物に対してある程度自在に対応できる、動的で柔軟な体系である必要があるのです。

「不生不滅」という言葉で代表される「八不」には、上記のような意味を捉えることができると考察したのです。

西田幾多郎の「純粋経験」からの自発自展の仕組み

私が「偶然」を考察するときの手懸かりにした最初の文献の一つは、西田幾多郎の「善の研究」の第一編、第一章「純粋経験」だったのです。

すなわち「偶然」とは何かを考えたとき、最初に頭に浮かんだのが原初的な純粋経験の例として有名な、『色を見、音を聞く刹那、・・・この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。・・・未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇(さいじゅん;最も純粋で混じりけのないさま)なるものである。』なのです。

ここで、今回の考察で主要なキーワードとなるのは「主(観)もなく客(観)もない」という言葉なのですが、この考察に当たっては、上田閑照 著「西田幾多郎、人間の生涯ということ」((株)岩波書店、1995年11月)の「純粋経験の哲学」の項を参考にしました。

我々は、何らかに遭遇したとき、始めから「主観−客観」の枠の中で、自己中心的に自己から対象を見てしまうのです。これに対して西田の考えは、「主もなく客もない」主客未分の状態すなわち「主観−客観」の枠を一旦破り、「無」の状態、「我なくして」限りなく開かれ汲み尽くされることのできない無限の残余がある状態で、対象を受け容れることなのです。

そしてこの原初の純粋経験が、徐々に自発自展していくのですが、この体系は、@『原初に開かれた「主もなく客もない」限りない開けが無限の余白になっているオープンな体系です。』、A『一旦は破られた「主−客」の枠がもう一度ゆるく組まれて、もはや経験を縛る固い枠としてではなく純粋経験が自己分節してゆく仮設枠となり、そういう仕方で純粋経験が自己限定されてゆきます。さまざまなるものがまずそれぞれ別々にあるのではなく、全ては主−客の仮設枠をとおしての純粋経験の自由変容となります。純粋経験はそのようにして絶えず動いている生動(生命体)そのものです。』と記述されています。

このような純粋経験からの自発自展は、前回考察した鈴木大拙の東洋的(創造的)自由そのものと言えるのでしょう。また複雑系の科学の立場でいうと、自然や生命体の秩序をつくり出す自己組織化現象の基礎となる「非平衡開放系」の世界なのです。

「八不」の現代的解釈

上田閑照先生が考察しているように、西田幾多郎の「主もなく客もない」という原初の純粋経験を表現する言葉から、純粋経験の自発自展を通して、「自覚」や「場所」の考えが導かれるのです。

「主観−客観」は対義語であり、これらのそれぞれの否定「主もなく客もない」は、「不生不滅」で代表される「八不」と構造的に似ており、「八不」の解釈にも応用できると思われます。なお「八不」は、涅槃寂静の世界が何であるかを調べる数少ない手懸かりであり、これを明確に解釈することは重要なことなのです。

「八不」に示されている対構造すなわちそれぞれ対をなす対立する言葉のそれぞれは、固定されたある状態を示すものです。そしてこの対のそれぞれを否定することは、その対の固い枠の中の一端の固定された状態に一方的にとどまるものではないことを意味し、そしてこの対の言葉の間を、上田先生のいう柔らかな仮設枠をとおして自由自在に動きうる状態として解釈できるのです。

すなわち「八不」は、対立する対の語で形成される枠を一旦は破り、「無」の限りなく開かれた無限の余白の状態から出発し、再度ゆるく組まれた仮設枠を手懸かりとして、対立する語が共存でき、事情によって自由に変容できる体系として捉えることができるのです。

前々回(「偶然の定義から導かれる意外な関係」)で考察しているように、非線形性の漸化式の実行結果は、「収束」と「発散」の間を延々と動き回るのでした。ここで重要なのは、この枠の中の動きの途中経過あるいは経路(プロセス)なのです。

下表(表1)に示すのは、「八不」の途中経過(経路)の意味をキーワードで表示したものです。

表1.「八不」、対立する語のそれぞれの否定が表す途中経路
表1.「八不」、対立する語のそれぞれの否定が表す途中経路

「不生不滅」は前々回ですでに考察していますが、この対立語「生−滅」は、その過程を「生−生存−滅」あるいは「滅−混沌−生」と表現でき、生から滅の方向の過程には生存があり、滅から生の方向では混沌(萌芽)が挙げられます。

すなわち「不生不滅」を、人生は生まれること(スタート)でも滅すること(エンド)でもなく、その途中過程(プロセス)すなわち「いまここに」が重要であると解釈しているのです。仏教でも覚りそのものより、そこに到達するまでの修行が重要なのでしょう。

次に「不断不常」の対立語「断−常」は現代風にいうならオフとオンということでしょう。この過程は仏教用語に「刹那滅」というのがあるように、刹那刹那に断滅しながら相続していることで、例えば心臓の鼓動(心拍数)は通常1分間に70ぐらいで、運動や病気などで変動します。連続的な量の変化アナログではなくて、断続的なデジタルなのです。生き物の細胞は新陳代謝を活発に繰り返し、常に新旧が入れ替わっているのです。これが生きているということなのです。

次に、「不一不異」は「同一」と「異」が対立語のようですが、これらが共存する世界は、個々の生き物の世界と考えられます。「個物=普遍+特殊」で表現されるように、同一のものとそれぞれ異なるものとで成り立っているのです。原理や機能は同じでも、性質や形は異なるのです。人間でいう人格や個性に相当するものです。

人間の顔がそれぞれ異なるように自然界の生物、たとえば木一本、葉一枚に至るまでそれぞれ異なるのです。これは必然では説明できず、偶然が如何に影響が大きいかを物語るものでしょう。

最後の「不来不出」ですが、「不生不滅」を「生−生存−滅」という過程で表現できるように、「来(入力)−生きる力(成長・増殖)−出(出力)」という過程で表現できるのでしょう。これは食物を摂取して成長するとか、多くの知識を吸収して、人のための仕事を成就するというような生き物の活動そのものです。

以上は一例に過ぎず、もっと適切な例があるかも知れませんが、いずれにしても生き物がその生命を全うするためには、「八不」に示される対の二語いずれかに一方的に偏られては困るわけで、この対の二語の途中の過程がきわめて重要なのです。すなわち「八不」は、二元論的な対立を克服した世界であり、かつ生き物が生存し、その機能を十分に発揮し創造的自由をもたらすものなのです。

そして、この「途中の経路」のことを、仏教でいう「中道」と解釈したいのですが、如何でしょう。

以上ナーガールジュナの「八不」は、「ただ今生存中」ということであり、言い換えれば、「変化はするが蝉は蝉である」ということでもあり、すなわち「変動はするが、その限界を逸脱しないように作用するホメオスタシスの機能」を意味するのでしょう。これは生き物の生命を維持することであって、「不生不滅」など「八不」の世界として定義される涅槃寂静の世界は、「生存」の平穏無事としての静寂を意味することなのです。そしてこの平穏無事の静寂を獲得するためには、対立する事物が共存する世界の中で、大拙の主張する東洋的(創造的)自由を自覚し、自己の運命を切り開いていくことなのです。

この究極の結果は、何か大慈大悲底の仕事を中立・無作為・無目的で実行することであると大拙は記述しています。

2011.3.6