美とは何か/柳 宗悦の世界

偶然という視点から、既に発表している「華厳経の風景」をかいつまんで回想してみます。

「華厳経の風景」の画像を電脳での制作過程で、展示したような画像に遭遇することじたい偶然そのもので、この画像の構成を必然として説明することは不可能なのです。

華厳宗の大成者といわれている中国の法蔵(643〜712)が洞察した、多面の鏡の光の反射の重重無尽のはてに現れるであろう蓮華蔵世界。これは光の無限の交錯によって生ずる偶然の奇蹟なのです。これを電脳で模擬実験したときに偶然に現れるのが「華厳経の風景」の画像なのです。

今回のシリーズの「まえがき」で少し考察していますが、華厳経の「夜摩天宮菩薩説偈品」の偈の中の『巧みな画工が自分のこころを知ることが出来ずにいて、しかもこころに由(よ)って描く』という成句には、きわめて重要な智慧が隠されているのです。

これは反復繰り返しによる徐徐の進化とそれに伴う飛躍的な進化のプロセスです。これは仏教でいう漸悟(ぜんご)と頓悟(とんご)に相当するのでしょう。 すなわち、巧みな画工は、西田幾多郎が記しているように、如何なる作品が出来るかを知ることなしに、まず描くという行為を実行に移すことなのです。そして「行為的直観」の反復繰り返しによって、少しずつ自覚し進展していくのですが、ここには画工自身も予期し得ない縁のめぐり合わせによる飛躍的な進展への期待があることを意味しているのです。

そして巧みな画工ほど、偶然の縁のめぐり合わせを捉え、その結果の延長としての全体像を洞察する直観が鋭いのでしょう。

ここでもう一つ重要なことは、巧みな(天才的な)画工でない、凡人でも、無心に数多くの試行を繰り返し繰り返し行えば、飛躍的な進化へと通じる縁のめぐり合わせに遭遇することが可能であるということなのです。

これは電脳で数多くの漸化式を実行することで、偶然に「華厳経の風景」のような画像に遭遇できることと同じことなのです。

以上のような背景のもとに登場するのが、柳 宗悦(むねよし)の思想なのです。

柳 宗悦の思想

柳 宗悦(1889〜1969)は、学習院高等学科のときに鈴木大拙や西田幾多郎に教えを受け、そして東京帝国大学の哲学科を卒業しています。約四十年にわたる民芸運動のきっかけは、無名の職人の手づくりの工芸品の中に、かって誰も見出せなかった美を捉えたところにあったのです。そして終生、無名の日常雑器が何故かくも美しいのかを問い続けた柳は、その答えが仏教経典の言葉に帰することに気付くのです。

今回は、柳 宗悦著、水尾比呂志編「美の法門」((株)岩波書店、1995年11月)を参考に、柳の主張する美とは何かを考察します。

以下断片的に柳の記述を引用します。

(1)『芸術というと、すぐ天才が連想され、才能がない者は到底駄目なように考えられますが、それは芸術の道を強(し)いて美醜(びしゅう)の葛藤という難路に導くためで、それ故に力量の秀でた者が必要となってくるに過ぎないのであります。美醜の闘いの絶える世界に住むとしたらどうでしょう。天才という特別な人を待たなくても、ただ人間本来の面目に帰れば、どんな人といえども、そのままで美しい作品が生めるはずです。この真理は、例えば未開人と呼ばれる人々の仕事に、しばしば素晴らしい作品が見出されるのでも分かります。彼らの心は純で自在でまだ分別に自らを縛らないために、作るものがいずれも活々(いきいき)としてくるのであります。』(「無有好醜の願」)

(2)『西欧の美学は、美醜分別後の問題を扱う。しかるに仏教美学は美醜以前を説く、進んでその未生を説く。それ故西洋美学は個人の救いを説く。個人的天才の謳歌の美学である。・・・今の美術史は天才史として綴られる。しかるに仏教美学の強(つと)めて説きたいのは、天才とともに、天才ならざる人々の美の国への貢献についてである。』(「仏教美学の悲願」)

ここで「未生」とは、人間によって美醜の概念が未だ生まれない以前の状態をいうのでしょう。

(3)『個人美が尊重されてきた近世では、必然に独創という事が重い意味をもつ。これがために斬新を求める風潮が芸術界にうかぶ。その弊として、奇抜なものが多く現れ、これが創造と混同されがちである。・・・

多くの人々は強いて刺激を求めて新奇を追うが、そんな境地に人間の帰趣はなく、また安住の故郷はあるまい。「涅槃寂静」の理念は、西洋では理解を得にくい。』(「仏教美学の悲願」)

(4)『工人たちは、美醜分別が未だ生まれない先に仕事にかかる。・・・幸いにも、分別に煩わされる機会が少ない身で仕事する。「覚」は乏しくとも、「信」がこのことを可能にする。これが工人たちへの救いである。・・・信とは素直な受け入れの心をいう。この道は他力的である。ここで他力とは第一に伝統を意味する。この伝統への依存が、工人を安全に歩かせる。または自然への信頼をも意味する。この場合、自然とは自然が恵む材料である。これを素直に受け取る心が信である。』(「仏教美学の悲願」)

ここで「工人」とは、日常雑器をつくる無名の職人のことです。「覚」とは「覚り」のことですが、ここでは美の天才的な感性をいうのでしょう。

(5)『つらつら考えますと、吾々を囲む自然には(例えば草でも石でも、まして花や蝶においても)一つとして醜いもののないことが分かります。自然の本来は一切のものを美しく創(つく)っているのであります。なるほどあるものは醜いと考える場合があるかもしれませんが、それは人間の自己本位の好悪の立場からしか評するに過ぎないのでありまして、自然そのものに醜さが許されているわけではないと存じます。人間が身勝手に差別をつけているだけで、自然そのものにそんな上下美醜の別はないのであります。』(「美の浄土」)

柳のいう「言葉としての美醜が生まれる以前」とは何か

仏教では、人間による分別によって二分される二元論的対立、例えば美と醜は、煩悩や執着の原因となるとして嫌い、いったん分別される以前の無分別の状態に戻って、再考することが基本なのです。

この無分別を実践する方法として、柳が示したキーワードとしては、上記引用文の(1)の「人間本来の面目に帰る」、(2)の「美醜以前」、(4)の「伝統への依存」または「自然が恵む材料を素直に受け入れる心」などです。

人間本来の面目とは、ここでは人間の本来もっている感性ということでしょう。伝統とは、ある民族や社会が長い歴史を通して培(つちか)い、伝えてきた様式のことであり、これに依存するか、または自然そのものを素直に受け入れることが、美醜の分別に煩わされないとしています。

このような柳の記述を少し拡張して図で表現すると、下図(図1)のようになるのでしょう。

図1 柳の「言葉としての美醜が生まれる以前」とは何か
図1 柳の「言葉としての美醜が生まれる以前」とは何か

すなわち、言葉としての美醜が生まれる以前を遡(さかのぼ)るとは、@からHまで進むことを意味します。ここでEの自然をも含むF、G、Hをあえて記述したのは、「気象」という自然と相互作用をするきわめて重要な要素を加えたかったためです。

気象とは、大気の気流に関わる諸現象をいいます。太陽から地球に熱エネルギーが入り、一方地球からは外部へ赤外線が放射される、いわゆる開放系なのです。これが大気循環の原因となるのですが、地球表面の山や海の分布の影響や海流などの相互作用などにより、この大気循環は大きく変動し、いわゆる非平衡状態なのです。そしてこの挙動は決定論的カオスといってもよく、予測不可能なのです。

今年の夏の猛暑は、全く予想できなかったのですが、専門家の後からの言明では「いくつかの要因が重なって異常気象となりました」と偶然を意味する内容の説明をしています。異常気象という言葉は、専門家はめったに使わないのです。偏西風の蛇行のわずかなずれが、日本では冷夏になったり猛暑になったりするのですが、この中長期の予測は不可能なのです。

きわめて長い期間、人間は自然によって育まれ、人間の感性も自然の影響を強く受けているのです。そしてこの自然は気象の影響を強く受けています。そしてこの気象すなわち大気循環は、決定論的カオスの影響を強く受けているのです。

すなわち人間や人間の心は、自然の影響を強く受け、その究極(根源)では決定論的カオスの影響を強く受けているといってよいのでしょう。

以上言葉としての美醜が生まれる以前に帰るとは、人間が本来もっている感性に準ずることであり、この感性は自然が恵む材料に敏感であり、かつその根源である決定論的カオスが生み出す秩序にも敏感に反応すると考えられます。

そしてこれを「美」とすると、この最終的な結論として、柳の主張する天才に匹敵する優れた作品を生む可能性があるという無名の職人が量産する作品に、もし決定論的カオスの美が関わっているとするならば、この作品の製作工程の中に決定論的カオスが生ずる何らかの仕組みが存在するはずであり、これを明らかにする必要があるのです。

実はこれをより具体的に考察したのが、「華厳経の風景」のエピソード編の「2.自然から生まれる無作為の美」、「3.絵心を知らずして描く」、「4.非線形性の妙に着眼した柳」なのです。

当時は決定論的カオスから花の画像を生み出すのに夢中でしたので、文章上の配慮に欠け、少し結論を急ぎすぎたきらいがありました。

「真善美」という言葉の意味

柳は「真善美」という言葉も記していますが、上記の考察のように「真善美」という言葉を遡った根源では、何らかの共通点がありそうであり、このような仮設のもとに、柳は『美の経典を求める者は、宗教の言葉に帰ればよい。』という境地に達するのです。

実は「真善美」そのものではないのですが、これに近い関係は、「仏教思想と自己相似集合」の「仏教思想と西田哲学と複雑系の科学の総括」で考察しており、これらの関係は図14(B)に示されます。

上記の考察からも、人間の本姓というべきは自然そのものに準ずると考えられ、仏教では「如(そのままのすがた)」であり、西田哲学では「純粋経験」であり、複雑系の科学でいうと、新たな秩序が生まれる「非平衡開放系」ということになるのでしょう。

約7千万年前(白亜紀末)に、花(被子植物)が誕生したことは重要な意味があるのです。これは昆虫を繁殖させるとともに、昆虫によって花自体も進化・繁殖したのです。花と昆虫は共存共栄の基本です。そして花の種や果実、そして昆虫は、食料として人類の祖先である哺乳類を救ったのです。

すなわち、これが人間にとっての究極の故郷なのです。人間の感性には、これらのような自然に育まれた一切の記憶のかけらがわずかに残っているのでしょう。

「華厳経の風景」を立ち上げてから2年間ぐらいは、自然の根源ともいうべき決定論的カオスから花を生み出すのに夢中だったのです。

2010.9.26