あらためて「偶然」の意味を考える

これからの人間の生き方を考える上で、地球上での生きものの長い歴史を参考にすることは、意味のあることなのでしょう。この意味で、前回の約二億二千万年の間、幾多の試練に遭遇しながらも生き延びてきた、人間の祖先であるほ乳類の智慧には、きわめて印象的でした。

この智慧は、大自然の中で度重なる生死に関わる偶然に遭遇することで、進化したものと思われます。

道元の「現成公案」の言葉を借りると、『万法に証せらるる』ことで、智慧が生まれ成熟し、その智慧とは『自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。』なのです。

道元の「現成公案」と「涅槃寂静の世界」

偶然とは、縁起において、人間の認識能力では因や縁を認識できない状況、すなわち結果を予測し得ない出来事を言うのでしょう。さらには、人間が因や縁を認識する以前の状態とも解釈できます。これは人間が事実を「ありのまま」に受け入れることです。そしてこれを実践するには、道元の言う『自己を忘るる』ことが必要なのでしょう。

人間の祖先であるほ乳類にとっては、目前の出来事はすべて偶然なのです。道元の「魚と水」、「鳥と空(そら)」のたとえのように、生きものとその環境とは、それぞれ個々で成り立つものではなく、全体として一体化して成り立ってこそ、魚や鳥は自由自在に生きられるのです。

以後の考察は前回の考察と少し重複しますが、生きものとある環境とがすみやかに一体化する術(すべ)は、どのような環境にも束縛されない身体と心(脳)を兼ね備える必要があり、これが道元の究極の境地である「身心脱落」なのです。ここで「脱落」とは、脱(ぬ)け落ちることで、どのような環境にも束縛されないという意味なのでしょう。すなわち身体的にも精神的にも型や枠にはめられないということです。

これを具体的にいうと、あまり融通のきかないハードウエア(外面的実体、身体、設備、装置などの箱物)は、できるだけ構造は単純で、軽薄短小にし、その代わり融通のきくソフトウエア(内面的な脳や心に関する機能)は、その環境に最適に合致するよう十分に成熟させることなのです。

これが日本独自の千利休の侘び茶の世界なのでしょう。外面的には簡素で閑寂な草庵でも、その中の人間の所作や精神的な境地は、きわめて充実した豊かな世界なのです。

これが2億2千万年の間、人間の祖先のほ乳類が体験した生き方であり、偶然に対応した最良の態勢であり、そしてこれが私は「涅槃寂静の世界」であると考えています。これを簡単にいうと、自然という母体に抱かれた(環境と一体化した)、静寂な世界なのでしょう。

「中」と「偶」の漢字の本来的意味

「仏教思想と自己相似集合」の最終「仏教に関わって五年目の回想」での考察で、仏教でいう「中」の世界は、「偶然」を意味することを、決定論的カオスを基盤にその対比から検討しました。今回は漢字の本来的な意味から考察します。漢字の意味は、藤堂明保、松本明、竹田晃 編「漢字源」((株)学習研究社、昭和63年11月)を参考にしました。

これによると「中」は、象形そのもので、『旗ざおをわくのまんなかにつき通した姿を描いたもので、まんなかの意をあらわす。またまんなかを突き通すの意をも含む。』とあります。これは左右対称な物の中央軸(対称軸)とも解釈できます。

禺とは、『大頭の人まねざるを描いた象形文字』で、「偶」の本来の意味は、『人に似た姿であることから、人形の意となり、本物と並んで対をなすことから、偶数の偶の意となる。』とのことで、@人形、A似たものどうし、仲間、B仲間になる、また二人並んでいく、Cペアをなしているさま、D予期せず両方が出あう、などの意味です。「偶」は似たものの「対」すなわちペアの意で、形が似たものどうし二つで一対をなすことで、これは対称性を意味します。また二つのものが出会うという意味にもなります。

以上を図に示すと、下図のようになります。

図1 漢字本来の意味から「中」と「偶」の関係
図1 漢字本来の意味から「中」と「偶」の関係

この図からわかるように、いずれの漢字も二元論でいう二つに分割したものを一対(一体化)したとき、すなわち分割前の状態を意味しているとも解釈できます。

「偶」の本来の意味で注目すべきは、似たものどうし、仲間、仲間になる、一対になる、すなわち統合するという意味のあることで、仏教思想でいう一体化、融合、無分別に相当し、また二つのものが予期せず出会うという偶然の意味からは、仏教思想でいう無作為、縁に相当します。このように「偶」の字は仏教思想の根幹ときわめて整合性があるのです。

次にこれらの字の意味を数学的に解釈しますと、図のように「中」は象形そのもので、左右対称の中央であり、「偶」も似たものの対で、ともに対称性があるのです。これは何を意味するかというと、日常で偶然の結果を得ようとするときは、サイコロやコインを用いるのですが、サイコロは正六面体で六つの対称面があり、コインは裏と表の二つの対称面があります。そしてこれらを転がしたり投げたりして、どの面がでるかの結果を出し、これを繰り返し繰り返し反復して、数多くの結果を集計すると、「大数(たいすう)の法則」で、それぞれの面がでる割合(確率)は等しくなるのです。このように対称性のあるものは、サイコロやコインによる試行結果のように、「一方的に偏らない」、「平等」、「無作為」という意味を持つのです。

西田幾多郎の「純粋経験」と偶然

今まで考察してきた「偶然」の視点で、「純粋経験」の初めの説明を読むと、よく理解できるように思えるのです。ここではこの初めの部分を引用します。

『純粋というのは、普通に経験といっているものもその実は何らかの思想を交えているから、毫(ごう)も思慮分別を加えない、真に経験そのままの状態をいうのである。例えば、色を見、音を聞く刹那(せつな)、まだこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考えのないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。』

西田が指摘しているように、普通経験というと『色を見、音を聞く刹那』の偶然の境地を飛び越えて、必然の境地すなわち何らかの思慮分別を加えて受け入れてしまうのです。

「純粋経験」とは、まさに偶然に接したその瞬間の状態であることがわかります。そして西田が「序」で記述しているように、『純粋経験を唯一の実在としすべてを説明してみたい』と、これが西田哲学の展開の基礎となるのです。

このことからも偶然の境地は、人間の生き方を考えるときの根源的なものとなるのでしょう。

以上、道元の「現成公案」や西田の「純粋経験」との対応は、すでに考察した「仏教思想と自己相似集合」の「仏教思想と西田哲学と複雑系の科学の総括」の図14(B)に相当するものです。

以上のことから、偶然の状態とは、人間が分別する前の無分別の状態であり、従って必然と偶然とは、仏教でいう分別と無分別に通ずるのだと思われます。

最後に、それでは「涅槃」とか「無分別」という言葉があるのに、なぜ「偶然」という言葉にこだわるのかについて記しておきます。

「涅槃」とか「無分別」という言葉から、新たな展開を導き出そうと考えるとき、現代人の私にとってはイメージが湧いてこないのです。

縁起において、人間が因や縁を適切に認識できないと、戯論になり、妄想を起こし、煩悩や執着の原因となるのです。煩悩や執着を滅却するには、あえて因や縁を安易に認識するのをやめて、すなわち必然にたよらず分別するのをやめて、この一つ前の段階の無分別の状態すなわち偶然として受け入れようとすることなのです。

この偶然という言葉は、今まで考察しこれからも考察するであろう、確率論、複雑系の科学や決定論的カオス・フラクタルなどと密接に関係するのです。

仏教思想を現代的に解釈し、利他の意味で現代に適用できるように展開していくためには、偶然の世界として取り扱うほうが的確だと考えたからです。

はからずも、偶の本来の意味は、似たものどうし、仲間、だったのです。偶然の世界は、自己相似集合の世界でもあるのです。

2010.8.20