偶然に遭遇したときの優位な態勢

前回の考察を書き終えた7月18日と翌日の19日に、またもや有益な情報に遭遇したのです。それはNHKスペシャルの 恐竜 VSほ乳類 シリーズの番組です。これは前回取り上げた井上ひさしの言葉を科学的に裏付けするような内容だったのです。

実は恐竜と人間の祖先であるほ乳類との対決は、過去2006年7月16・17日に放送され、今回はその続編のような内容で、これらを含めると井上ひさし「きらめく星座」での記述『小さな生命が数かぎりない試練を経て人間にまで至ったのも奇跡の連続です。』を実証したような番組なのです。

なおこの放送の最後では、人間の生命について、『自分のものでありながら、自分勝手にできない、それは遠い過去からの贈り物だから』というキャッチ・コピーでしめくくっています。

今回はこのNHKスペシャルの放送内容を参考にして、今後人間が生き延びていくための「偶然」に対処するには、どのようにあるべきかを考察します。

災難は偶然からやって来る

何らかの目的を達成させる「必然」は、生き甲斐であり、努力し探求心を起こさせ人間に生きる力を与える源となるのですが、ただしこの必然のみに偏ることは少し危険が伴うように思えるのです。

「涅槃寂静の世界」は、このはやる心を抑えて、少し「さめた目」でこの世の中を見る世界なのです。これまでの考察のように、この世の中は自然も人間社会も偶然のめぐり合わせによって成立している割合はかなり多いはずなのです。しかしながら「まえがき」でも考察しましたが、人間社会の出来事は、人間の能力(英知)による必然の結果として解釈する傾向が強いのです。人間の歴史も、これを振り返って見るときは、必然の結果として理由付けすることはそう難しいことではないのでしょう。

しかし西田幾多郎も指摘しているように、人間があらかじめ人間の歴史を予測することは不可能に近いのです。

私の若い頃の話してすが、職場で「電話交換機の自動化反対」の組合運動があったのです。当時は職場での電話が、交換手によって手動で接続が切り換えられていたものが自動に代わる時代だったのです。現代のような電脳全盛の情報化時代の到来など夢のまた夢だったのです。これが科学技術専門の集団の職場での出来事であったことも、今から考えるとショックなのです。

経済や社会現象の例としては、バブル崩壊のとき、規模の大きい金融機関や保険会社のトップが、自社の業績不振の理由として「これほどの経済変動が起こるとは」とか「これほど株価が大きく変動するとは」予想できませんでしたと公然とかつ堂々とあたかも不可抗力のように述べたことです。金融機関にしろ保険会社にしろ、近い将来の経済動向を予測して、損失を最小限度にとどめるための手段を実行するのが、最大の任務のはずなのに、この対処についての責任は何もふれないのです。

これは最近のリーマン・ショックの場合も同様であり、また最近の世界的な気象変動による各地での災害や世界的に流行した伝染病などにもいえることなのです。これに関しての政府や地方自治体の対処についての説明の多くは「「想定外」の出来事であったため敏速に対応できませんでした」というのが普通です。この中には当然やるべき任務を怠ったための必然としての人災も含まれるのでしょうが、ここではさておき、問題はこの「想定外」の出来事に如何に対応するかということなのでしょう。

人間の祖先のほ乳類に幸運をもたらせた偶然

ここではNHKスペシャルの放送内容を参考にして記述します。地球上に人間の祖先であるほ乳類が誕生した2億2000万年前以後の大部分の期間は、ほ乳類は、常に圧倒的に繁栄した恐竜や肉食獣に食べられる側として、きわめて過酷な下積みの生活を強いられたのです。

しかし下記のような幸運によって、この長期間を生き延びることができたのです。

(1)巨大隕石の衝突による環境変動

(2)北半球の大陸の移動による広域化

(3)気象の大変動

(4)恐竜や肉食獣どうしの争い

(5)被子植物の繁栄

上記の個々についての説明は省略しますが、これらの出来事は、恐竜や肉食獣にとっては大打撃だったのですが、ほ乳類にとっては、きわめて幸運だったのです。恐竜や肉食獣に常におびえ過酷な生活が、ほ乳類に下記のような特質を選択させることになったのですが、これが環境や気象の急変時には逆に効を奏したのです。

@ 特定の環境や気候に適応した外面的な進化ができなかったこと。例えば身体が小さかったこと。

A 夜の行動をよぎなくされ、脳の発達、特に大脳新皮質を進化させたこと。

B 確実に子孫を残すための胎盤を進化させたこと。

ここで@はある特定の環境や気候が長期間続く場合の生存競争では、より大型になり首を長くするなどの方が有利だったのです。恐竜繁栄の特徴は圧倒的な巨大化にあったのです。ある環境や気候により適応した特殊化を行うことが、最も効率よく生きられたのです。しかし常に食べられる側にあったほ乳類は、大きくはなれなかったのです。

AとBについて、ほ乳類は昼間はこそこそと物陰に隠れ、夜はほそぼそと食べ物をあさり、生活していたのです。このことからも身体を大きくすることは不利で、その代わりに身体の内部を進化させたのでした。

闇の中で動いたり狩りをするために、感覚器官の発達や的確に手足を動作させる必要にせまられ、これを可能にしたのが脳の発達です。特に大脳新皮質という五感の統合や手足の統制を司るほ乳類独特の脳組織です。

またより安全により確実に子孫を残すために、子供を母胎で、できるだけ大きく育てる胎盤を進化させたのです。これは妊娠期間が長く、へそのおを通して栄養が送られ、胎児の脳の発達がよく、脳の大型化を可能にしたのです。

以上のように、身体は小さく、感覚器官は発達し、手足の動作は鋭敏で、かつ子孫を確実に確保できたため、環境や気候の度重なる大変動に耐えて生き延びられたのでしょう。

偶然に遭遇したときの態勢と仏教思想との対応

偶然とは、人間の認識能力では因や縁を認識できない状態、あるいは認識する以前の状態であり、これらは「ありのまま」の状態であり、仏教思想でいう「無分別」の状態に対応するのでしょう。そこで偶然に対処することは、「無分別の分別」に対応するのでしょう。

それではこの無分別の分別とは具体的にどのようなことなのかを、上記のほ乳類が長期間生き延びられた事実を参考にして考察しましょう。

@の特定の環境に適応するための特殊化をしないで、原始(本源)的な状態を保っていたということは、分別をし続け細分化せずに、無分別(普遍)の状態に保つことを意味します。このメリットは状況(環境)の急変に敏速に対応できることでした。

ほ乳類の身体が小さかったことは、環境や外的状況の急変に対応するための柔軟性・多様性・敏速性に有利なのです。これは現代風に表現すると「ダウン・サイジング」ということなのでしょう。

仏教での禅語に「無一物」というのがあります。いろいろな物を所有していると、状況が変わったとき、それらの物に執着しそれらを失わないように固執するため、柔軟性・多様性・敏速性の面で不利となる。その点無一物の方が自由自在に対応でき有利であるということなのでしょう。

AとBは脳の発達です。動物の中で人間の唯一の優位性は脳であり、大自然の中で生きていく道は脳以外にないことを忘れてはならないのです。仏教には唯識思想があり、これが対応するのでしょう。

人間の認識能力が高まれば、偶然を必然に変えることができ、対処しやすくなります。また人間には偶然に対処できる、直観という脳の機能があるのです。 思考や判断などの知的な作業を担う大脳新皮質に対して、直観は脳の「線条体」という部分の活動によるといわれています。将棋の羽生善治名人の言葉に『直感は経験の蓄積から浮かびあがるもの』とあるように、線条体では過去に積み重ねた経験の中から最適な答えを瞬時に引き出す機能があるようです。

もし何らかの偶然に直面したとき、具体的な解答を出すのであれば、徹底した修行をして、数多くの経験を積む必要があり、単に座って禅定すればよいというものではないようです。

以上@の巨大恐竜のようなハードウェアに対しては、仏教では「固定的な実体は認めない」とか「一定不変ではなく、移り変わっていくものである」という意味の言葉が対応できそうです。AとBのほ乳類の脳の進化すなわちソフトウェアに対しては、仏教では覚りの智慧が対応できると思われるのですが、課題として自利利他への十分な活用を考える必要があるのでしょう。

ほ乳類の身体は、覇(は)者にはなれず(巨大化できず) 脱落し、心(脳)も確固たる信念などなく自由に解き放った状態を脱落したと考えると、道元のいう「身心脱落」の構造は、ほ乳類が2億2000万年の昔から生き延びられたという証しにほかならないのです。

そしてこれが世の中を「さめた目」で見る境地であり、日本独自の侘(わび)茶の簡素静寂の境地ではないでしょうか。そしてこれが「涅槃寂静の世界」の生き方なのです。

一方、地球上の覇者として、大きな顔をして人間がのさばっている現代、そしてハードウェアの巨大化競争に明け暮れている人々の姿は、まさに恐竜の境地といえるのでしょう。

以上、偶然に対応する優位な態勢とは、すべての事柄について、固定的なハードウェアの面では、極端な特殊化はしないで、できるだけ簡素なものにとどめ、その代わり自在に融通がきくソフトウェアの面では、十分な特殊化をすることで効率的に通常の仕事を遂行していることが、いざと言う時に臨機応変に対処が実行できるのです。

2010.8.1