仏教に関わって五年目の回想

2005年3月に「華厳経の風景」を立ち上げて、今回でちょうど五年になりますが、この間何をしてきたかを回想し、一区切りつけたいと思います。

今から考えると、結局仏教の「三法印」の思想を現代に対応させることだったと思えるのです。前回、仏教の三法印、1.諸行無常、2.諸法無我、3.涅槃寂静 について、少し考察をしましたが、今回はさらに今までの考察を回想しながら検討したいと思います。この中での圧巻は「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」でしょう。

下表に、仏教の三法印と今まで考察してきた「華厳経の風景」の画像を生み出した複雑系の科学の諸項目との比較照合を示します。

図

最初は華厳経の思想からスタートしたのでした。例えば、「重重無尽」から導かれれるのは無限数列だったのですが、この数列は、何らかの時間的変化を表すと解釈でき、そして漸化式で表現できるのでした。

これはあたかも仏教でいう「十二縁起」のように、無明、行、識、名色、・・・・・・、生、老死、というように、時間的な変化を表す「言葉の列」と考えられます。そして、最初に直接的な原因として「無明」を設定すれば、縁起の連鎖の結果として、「老死」が必然的(決定論的)に定まり、言葉で表現される一種の決定論です。

さて、前回考察したように、宇宙の天体の運行などの基本法則が基になって、何らかが時間的に変化する過程の現象を解決する仕組みとしての力学系(ダイナミカルシステム)は、仏教でいうなら「諸行無常」の世界に相当するのでしょう。

そして漸化式が、非線形性の場合には、決定論的カオスになる可能性があり、これについては多くの時間を費やして多面的に考察をしてきました。今回はこの究極的な意味付けを、「涅槃寂静」と比較照合して考察します。

不変だから、実体があるから執着するのか

ここでは「諸法無我」を例として考察します。この検討にあたり、仏教用語の本来的な解釈には、中村 元 著「佛教語大辞典」(東京書籍(株)、昭和56年5月)を引用させていただきます。

「無我」とは、我(永遠不滅の本体・固定的実体)が無いことを意味し、同じ意味での「無自性」に相応するとしています。

「諸法無我」すなわち「一切の存在には、永遠不変の実体が無い」という概念は、「諸行無常」と共に、当時としては画期的な考えであったと思われます。

ただし、現代の情報化社会においては、「諸行無常」も「諸法無我」も、特に意識するほどのことはないという感覚で受け取られ、影が薄くなっています。

仏教の多くの解説書では、「言葉で表現されたものを、永遠不変の実体があると思い込み、それに執着する」と説明しています。

はたして、永遠不変の実体であるから、執着するのでしょうか?

例えば、人間のなりわいの基になる経済などにおいて、物の価格の多くは、特に株や為替の価格などは、現代的な意味での(短期的に不変な)実体はきわめて不明確であり、かつ人間の思わく(執着)で大きく変動するものに、さらに執着するのです。

現代では、実体が不明確なものだからこそ、または変動するものだからこそ、執着の対象となり、自己の欲望を満たそうとするのです。すなわち固定的な実体があるからとか不変なものだから、執着するということは一概には言えないのです。

「諸行無常」とか「諸法無我」から、「物事に執着しない」という結論を導き出すのは、簡単ではないのです。

無我、無自性、空をどう解釈するか

仏教では、永遠不変の実体がないことを強調すると同時に、一切の事物は因縁によって生ずるという縁起説を提示しています。

現代の情報化社会でも、世の中の現象が「関数」で提起され、数学的モデルとして成立する、関係性のみの縁起の世界そのものなのですが、この縁起の世界とは何を意味するのでしょう。

仏教の解説書では、「自己と他者やその他の物とが密接に関わっている世界に目覚めることで、他者や物についての配慮(利他の心)が生まれる」という説明があり、私もこの説には同感で、異論を唱えるつもりはないのですが、 一方、逆に見方を変えれば、関わっているからこそ、他者や物についての執着や煩悩が生まれるのではないでしょうか? 縁起の世界だからこそ、執着や煩悩は生まれるとも言えるのです。

問題は、「空」から仏教の根幹である「自己の煩悩を滅却して、智慧と慈悲の心を生じさせること」をどのように導くかということです。

ここで改めて「空」の本来的な意味を中村の辞典で見ると、『空は、固定的な実体のないことを因果関係の側面からとらえた縁起と同じことをさす。 空を、何も存在しないこと、などと誤って理解することを空病という。』などとの記述もありました。また縁起の「縁」は、@とAが「条件」、 B、CとDは、所縁ということで、「よりどころ、認識の対象、心が外界の対象に向かうこと」とあります。

@、Aの意味は、直接的な原因(因)は同じでも、条件(縁)によって結果はいかようにも変えられるということでしょう。

「縁」は一つでなく多数あるはずですから、その連鎖による結果は無数にあるはずです。「縁起」は「縁(よ)りて起こる(生ずる)」ことですから、「因」や「縁」から生ずる現象は、すべて「空」かという疑問からもわかるように、「空」は「縁起」であるとすることはできないと思えるのです。

これは、「空」や「縁起」についての古典的な仏典の記述の詳細など知らない私の素朴な考えです。そして「空」とは修行を積み重ねることによって導かれる結果と考え、「縁」を極めること、すなわち「視点」を極めることと考えたのです。

煩悩を滅却するためのよりどころとしては、人間が何に真の価値を認めるかということなのでしょう。仏教の本質は、この価値観の転換にあるのではないでしょうか。

エピソード編「23.「空」の基本構造」以降で検討しているように、「空」を「視点の転換」と解釈したほうが、煩悩を滅却するよりどころとして、適切と思われるのです。

上記の辞典の「縁」の本来的意味の B、CとDは、心が外界の対象に向かうことで、まさに「視点」そのものです。 本来的な「縁起」の意味からも、「視点によって生ずる」という解釈ができるのです。

「十二縁起」で、「無明」から「生や老死」の苦が導かれるのは、この間の縁起によるものであり、これはある特定の縁によって導かれたものであり、言い換えれば、ある特定の視点で観察されたときの結果なのです。この間の縁を換えれば、すなわち別の視点から見れば、「無明」から「幸福」が導かれる可能性もあるのです。

ここで重要なことは、凡人の視点と修行を積んだ人の視点とは、当然異なるわけで、修行とは、人間としてより高いレベルの視点(価値観)に転換していくことを積み重ねていくことではないでしょうか。

過去に考察しているように、「色」と「空」とは、同じ縁起の世界なのですが、「視点」が異なるだけと考えています。凡人の視点で見たときが「色」で、修行を完成した人の視点で見たときが「空」ということです。

「自己と他者とが密接に関わっている世界」から「利他の心」が導かれたり、「無明」から「苦」が導かれるのは、修行をした人の視点だからなのでしょう。

ところで、「唯識・三性説と「空」の基本構造」の表1で考察しているように、自己から他者を含む世界を見る視点では、自己中心的な煩悩が芽生えるのです。 一方、自己と他者がともに関わる世界をその上方から見れば、すなわち大局的な観点から見れば、自己も他者も区別がつけがたく、同等であり、自己中心的な煩悩は滅却できるでしょう。

すなわち、このように視点を転換することは、「空」を実践するための具体的な方法なのです。

また力学系(ダイナミカルシステム)から生まれたパターンの特徴ともいうべき自己相似集合図形は、「空」の実相を示す図と考えてよいのでしょう。視点の転換をいろいろな面から試みるとき、この自己相似集合図形の示す世界観が目標となるのです。

以上が「「空」の基本構造」の考えなのです。基本と表現したのは、科学で説明できない、すなわち言葉で表現できない「華厳経の風景」のような複雑な画像があるからです。

「空」をも空じた「涅槃寂静」

この考察には、竹村牧男 著「インド仏教の歴史「覚り」と「空」」((株)講談社、2004年2月)を参考にさせていただきました。「涅槃寂静」の記述の一部を引用します。

『(涅槃とは)一切の知解(ちげ;獲得・対象的認識)が滅し、戯論(けろん)が滅して、寂静なる(境地)である。』ここで戯論とは想念に基づく言語表現で、認識や想念に基づく言語表現を滅することが、究極の境地であるとしています。

さらに、『ここでの縁起は、もはや縁(よ)りて起こるの意の相依性・関係性すらも突破して、端的に不生・不滅の真性そのものを意味していよう。それこそ真の空性そのものである。あるいは涅槃そのものである。』としています。

ここでは縁起の相依性・関係性も否定され、不滅・不生・不断・不常・・・・と否定の辞によってしか表せない世界が、真の空性あるいは涅槃そのものであるとしています。

このように「涅槃寂静」では、徹底して分別や執着を止滅させるために、言語表現をことごとく否定しまうのです。この言語を離れた実相が「中」なのですが、この「中」の実践としての「中道」は何を意味するのでしょう。

引用文中の不生・不滅の意味は、生と滅との二極にに分割された分別を否定するために、生と滅の両極を捨てて、そのいずれにも偏しない「中」の領域、すなわち不生・不滅(一方的に生じることもなく、または滅することもない)領域を観察するのが、真の空性であるということなのでしょう。

このように「涅槃寂静」は否定でしか表せない「中」の世界なのですが、この目的は分別と執着を止滅するためなのです。

以上のように、「空」に対する考え方が、「縁起による関係性の世界」から「否定でしか表せない「中」の世界」へ展開するのです。あえて言えば、「縁(よ)りて生ずる」から、「中」の意味での「不生(一方的に生じない)」への移行なのです。これらを踏まえた上で、複雑系の科学の決定論的カオスとの対応を以下検討します。

必然から偶然へ、縁(えん)から縁(ふち)へ

この題は上記の仏教思想に対応した決定論的カオスの挙動に関することなのです。ここで必然とか縁とは、因果関係を意味するもので、十二縁起の言葉の列に似ている数列を表現する漸化式のことです。

漸化式すなわち必然(決定論)から生じた決定論的カオスは、偶然・ランダム(無作為)の状態になるのです。すなわちサイコロを転がしてどんな目が出るか、あるいはコインを投げて表か裏かで、数列の各数を決定するのと同一の数列をつくることが可能なのです。

偶然・ランダムに起こることは、人間の分別や執着の対象にはなり得ないのです。これはまた一般の言葉で表現し得ないということでもあるのです。

さらに仏教の「中」の世界に、よく似ているきわめて興味深い現象があります。仏教ではこの「中」の世界の空を観じることで、「智慧」を覚ることが可能になるのでしょう。複雑系の世界でも、決定論(必然)とカオス(偶然)という二極に分割された分別を否定した、いずれにも偏らないそれらの中間(境界)の領域で、美しい秩序をもつ「華厳経の風景」の画像は生み出されるのです。

これを専門用語で「カオスのエッジ(縁(ふち))」といいます。縁を「ふち」という場合には「物のはし、へり、特にまわりの枠」ということです。

すなわち決定論的カオスに全面的に偏らないで、少し離れた「縁(ふち)」のところに、人間の心を安らげる美しい秩序が生まれる領域があるのです。

そして仏教思想と複雑系との対応は、縁起から「中」の世界の空への変遷に対して、必然(決定論)から偶然(ランダム)への移行ということです。

「涅槃寂静」の境地の現代的解釈

究極の涅槃寂静の境地は、「戯論寂滅の世界」、「言語表現が否定される世界」、「縁起が否定される世界」とか「否定でしか表せない世界」などと言われていますが、具体的にどのような世界なのかは説明されておりません。

上記の世界は、人間の分別や執着を一切滅するための表現であり、言い換えれば人間の作為をことごとく否定する世界といえると思います。これは、複雑系の決定論的カオスで考察したことから推測すると、偶然・ランダム(無作為)の世界であると考えられるのです。

偶然・ランダムの世界であれば、戯論や一般の言語表現は通用しませんし、縁起も通用しないのです。それでは「否定でしか表せない世界」はどうでしょう。すなわち、不滅・不生・不断・不常・・・・などについては、「一方的に滅することもなく、また一方的に生じることまもなく、また一方的に断ぜられることもなく、また一方的に常住であることもなく、・・・」と、「中」の考え方で解釈すれば、偶然・ランダムを意味することは明確なのです。

偶然・ランダムには、「偏らない」という意味があるのです。サイコロで特定の目に偏りがあったら、それは「いかさま」用のサイコロです。当然どの目も同等な確率で起こるのです。

偶然・ランダムの世界は、平等で偏りのない世界であり、これは仏教の究極の覚りの境地ではないでしょうか。平等ということは、「空の基本構造」で、自己や他者が共に関わる世界を上方(天空)から見た視点と同じことであり、そこにすべてが同等に共に生きているという利他の心も芽生えるのです。

以上、「涅槃寂静」の境地は、「偶然・ランダムの世界」であり、空気中に浮遊する微粒子のブラウン運動の世界なのです。これではあまりにも無味乾燥で、生きる活力がわいてきません。この偶然・ランダムの世界のよりどころとしての現実的なお手本は無いのでしょうか。

この世界は人間の作為のみ否定されるもので、自然の法則による分別は許容されるはずですから、「涅槃寂静」の境地は、人間の手の加えられていない自然界を意味すると考えてよいのでしょう。そしておそらくは、仏教でいう「ありのまま」の状態のことではないかと思われるのです。

人間の手の加えられていない自然は、まさに静寂な世界なのです。

2010.3.15