ネガティブ・フィードバック

前回考察した「仏教思想と西田哲学を「通信と制御」の視点から見る」のシリーズを今回も継続します。

(4)情報の制御から見た「否定」と「肯定」

仏教思想もそうなのですが、西田幾多郎の難解な文章の中にも、いやというほど「否定」という言葉が、繰り返し繰り返し用いられています。「否定」は単に「いや」ということではないのでしょう。前回(3)で考察したフィードバック制御の観点から「否定」と「肯定」の意味を考えてみます。

前回の図3で基準入力とフィードバックされた情報とを照合し、修正をする部分を下図に示します。

図4
図4. 制御の観点での「否定」と「肯定」の意味

ここで動作信号e というのは、制御対象に作用する要素の入力となるもので、基準となる入力r からフィードバック量b を差し引いたり(A)、あるいは加えたり(B)したものです。フィードバック量bとは、制御対象に作用する出力に比例し、かつ基準入力rと比較・照合ができる量です。基準入力r は、ここでは一定値として扱います。

いま外界からの何らかの影響を受けて、制御対象に作用する出力が減少したとすると、フィードバック量bも減少し、(A)の場合は動作信号eすなわち制御のための作用の入力は増加し、その出力が増加するよう動作します。(B)の場合は、制御のための作用の入力は減少するので、その出力はますます減少するように動作します。

一方、何らかの外界の影響を受け、制御のための作用の出力が増加したとすると、(A)の場合はその出力を減少するように動作し、(B)の場合はその出力をますます増大するように動作します。

以上のように、(A)のネガティブ(否定的)・フィードバックは、外界からの何らかの影響による制御対象に作用する出力の増・減の変化に対して、それを抑制(否定)するように動作します。これに対して(B)のポジティブ(肯定的)・フィードバックは、その出力の増・減の変化に対して、それを促進(肯定)するように動作するのです。

このように、ネガティブ・フィードバックは、不確定な外界からの影響によるシステムの変化(変動)を自律的に抑制する効果があり、動物、人間、社会などの生態系では、そのシステムを常に安定に保つ機能があるのです。例えば人間の体温維持においては、暑いときには汗を分泌して体温を下げ、 寒いときには、身体が小刻みに震え、その際生み出されるエネルギーが熱に転換されるのです。

これに対して、ポジティブ・フィードバックは、 不確定な外界からの影響を促進させるように動作しますので、まさに不安定な状態を生じさせる原因となるのです。これは出力(結果)の急激な増大や減少を意味するもので、火薬の爆発、バブル経済の発生あるいは、ある種の生物の絶滅など、自然現象や社会現象に意外と多いのです。またいわゆる「好循環」とか「悪循環」も、これに原因するのです。

好循環が生まれるように、 巧みに操作(修行)すると、少ない入力(労力)で多大な効果を上げることが可能です。仏教や哲学などでいう「飛躍」とか「超越」のような表現に相当する出来事が起こるのも、この妙用によるものでしょう。

以上フィードバック制御の観点からは、「否定」は「抑制」を、「肯定」は「促進」を意味するのです。

なお、仏教にこのフィードバック制御に似た思想があるのでしょうか、あります。道元禅師の「普勧坐禅儀」で『須(すべか)らく回向返照(えこうへんしょう)の退歩を学すべし』という言葉がありますが、「回向返照」」とは自ら修めた功徳を自らの悟りのためにふりむけることで、情報のフィードバックを意味し、「退歩(進歩の反対語)」ということから、抑制効果のあるネガティブ・フィードバックに対応するのでしょう。

このネガティブ・フィードバック制御のことを、一般に「自動制御」とか「自己制御」とよばれています。

(5)「音」の「善し悪し」を分けた「否定」と「肯定」

西田幾多郎が「否定」という言葉を多用したのは、多分哲学を学んでいた時代に「否定」という概念に魅了(みりょう)されたのでしょう。実は小生も「ラジオ少年」時代にネガティブ・フィードバックに魅せられた一人なのです。

少し古い終戦(1945年)の頃の話になりますが、ネガティブ・フィードバックとポジティブ・フィードバックの効果の違いを、 我々日本の庶民が身体的感覚で知り得たのは、終戦後まもなくの頃だったのです。 終戦の少し前のラジオは、音を少しでも大きく増幅するために、 ポジティブ・フィードバックを用いていたのです。例えばアメリカ軍の爆撃機B29 が日本に襲来するときの唯一の情報であった東部軍管区情報や終戦の天皇の玉音放送を聞いたときも、ややもすると、ピーと発振を起こしますます増大したのです。こういうときは、ラジオを手でたたくと元に戻るのです。

ところが終戦後まもなくアメリカから渡ってきた技術によって作られたラジオは、 「5球スーパー」とよばれるラジオだったのですが、この音質の良さは抜群だったのです。これにはネガティブ・フィードバックの技術が用いられていたのです。そしてこれが後に、Hi Fi (ハイファイ, High Fidelity (高忠実度)の略)と呼ばれる真空管アンプの先駆けとなったのです。ネガティブ・フィードバックを十分に動作させることで、 歪みの少ない澄みきった音は、心の繊細な多くの日本人を魅了したのです。

西田幾多郎は「善の研究」の「純粋経験」以来、 徹底して自己否定の境地を基本としているので、『行為的直観』は、 厳密にはネガティブ・フィードバックに対応するのでしょう。 すなわち自己に感覚器官を介して逆送(フィードバック)された情報が、 現に自己のとった行為に対して、抑制(否定)するように動作し、次の行為が生まれるのです。ここで自己の行為を否定するとは、自己を抑制し行為するための機械や行為対象と協調(一体化)することなのでしょう。

例えば、 音楽を即興で演奏する行為では、楽器によって音楽を生み出しながら、同時にそれを聞き(直観し)、これまでのイメージの延長として関連ずけられる次の音を生み出すような制御行為がなされるのです。これを実現するには、 演奏者と楽器そして生み出される作品とが完全に一体化していないといけないのです。

このように行為的直観によって美しい音楽が生まれるのですが、この行為的直観と同じ情報経路をもつ、ネガティブ・フィードバック回路は、くしくも、歪みの少ないより純粋な音を再生する原理でもあったのです。

以上、 西田幾多郎の「善の研究」から「行為的直観」までの哲学的思想は、音の善し悪しにも関連し、 純粋な音を再生する科学的思想でもあったのです。

(6) お釈迦さまの最後の言葉と西田の『行為的直観』

「華厳経の風景」のエピソード編の「16. 「無作為・平等」 / 「機械的」という概念」の考察で引用したお釈迦さまがこの世に残した最後の言葉、『 作られたものはみな移り行くものである。 怠ることなく努め励んで、汝らの修行を完成させよ』(「原始仏典、第一巻」、(株)講談社、 昭和60年4月)を再度引用します。

この言葉を、「行為的直観」の観点から翻訳するとしたら、 次のようになるのでしょう。

「人間の行為によって作られたもの、 例えば「機械」は、どんどん進化していきます。人間は怠ることなく勉強して、機械の進化に迷うことなく、その状況を直観(自覚)し続け、常に機械が人間のために有効に動作するように、限定(制御)し続けなければならないのです。」

「華厳経の風景」シリーズでは、わかりにくい仏教思想を現代感覚で解釈することなのですが、一つだけ仏教思想にはないことを、けっこう執着して主張してきました。それは機械と一体化することです。仏教では、 仏とか自然とか、あるいは他者との一体化は強調されているのですが、人間が作り出した機械との一体化についてはあまり言及されておらず、むしろ拒否反応があるように思われます。

現代では機械の恩恵なしに、人間の生活は考えられないのです。ただし時として、 機械は人間に害を与えることもあります。だからこそ一体化すべきなのです。機械を人間から分離(疎外)してはならないのです。機械と人間とを対立させてはいけないのです。人間に害を与えるのは機械のみではなく、 仏は別にしても、 自然も他者も同じです。現代では、 機械は自然や他者と同様に、自己の周囲環境の一部なのです。

映画「マトリックス」では、 人間が電脳によって支配される世界を描いたものですが、このような状況にしたのは、人間の知恵の無さが原因なのです。

私が強調したいのは、「サイバネティックス」の理念ともいうべき、 人間の利点と電脳の利点とを協調させることによって、人間がより人間らしさを発揮できる世界をつくることです。

すでに60年前にノバート・ウィーナーは、 人間を含む「動物」と人間が作った「機械」を同じ土俵(「場所」)にのせて、その双方を「情報と制御」の視点から徹底して究明し、これらの一体化をも模索していたのです。

仏教や哲学が現代に十分に生かされていないのは、人間がつくり出した物質文明を単に批判するだけで、西田幾多郎のいう『物となって見、物となって行う』ことを実践しなかったためでしょう。

前にも記述したように、イチローの手と、バットとグローブはまさに千手観音の如く一体化しているのです。

2009.7.26