サイバネティックス

「心は巧みな画工のようなもの」再考

前回の結論は、西田幾多郎の提言した「自覚の構造」が漸化式で表現できるということでした。実は今まで記述してきた「華厳経の風景」やその「エピソード編」では、 分かりにくい仏教思想を自然科学で説明するための考察だったのですが、その主旨は、簡単な数式による決定論的カオスやそこから生まれる秩序だったのです。

宗教にしろ自覚にしろ、人間の高尚(こうしょう)な精神的活動を、数学の簡単な式で表現できるなどと、 大それた事だというご批判を受けるかもしれません。このように人間の精神と自然科学とは同一でないとする考えは、大学教育における文科系(人文科学、社会科学)と理工系(自然科学)との分割に、 明確に現れています。

少し気張って言えば、この二分割された文科系と理工系を融合させ、根源としての自然にもどすことが、「華厳経の風景」だったのです。そこで「華厳経の風景」の「心は巧みな画工のようなもの」での考察を、今回さらに進展させようと思います。

そこでの課題でした、素朴で基本的な疑問「仏教や人間の心について扱っているのに、なぜ電脳なの?」に対する明解な答えをそろそろ出す必要があるのです。当時「心」と「電脳」との共通のキーワードとして、二つ挙げています。第一は、 人間自身そしてその心は、長期間自然によって育まれたもので、自然の摂理(自然科学)を遺伝子として持っているはずです。第二は「サイバネティックス」という概念です。今回はこの第二の「サイバネティックス」について考察します。

サイバネティックスとその提唱者ノバート・ウィーナー

まず予備知識として、サイバネティックスを簡単に紹介しますと、1948年ノバート・ウィーナーは「サイバネティックス---動物と機械における制御と通信---」という著書を出版しました。この副題からもわかるように、 自然から生まれた人間も含む動物と自然科学の応用としてつくられた高度の機械は、通信(情報)と制御という観点から、共通性があることを明らかにし、 新たな情報機械の創造や、人間および人間社会の科学的な究明に適用できることを提唱したのです。ちなみに現代のような情報化社会の到来を当時予測した人でもあるのです。

すなわち根源としての自然から派生した人間科学としての文科系と自然科学を扱う理工系を、情報と制御の視点から橋渡しをし、融合すなわち統一できることを「サイバネティックス」は提言しているのです。

ちなみに、仏教も「情報」による煩悩や苦悩の生起を如何に消滅(「制御」)させるかの教えではないでしょうか。

以上のことをより理解するには、ノバート・ウィーナーの経歴を知るのが早道と思われます。これに関して、下記に示したノバート・ウィーナーの日本語版の主な著書の中の文献(1)の「訳者のあとがき」から以下に適当に引用させていただきます。

『1894年にアメリカで、言語学者レオ・ウィーナーの長男として生まれ、幼少より父の厳格な教育を受け、9歳でハイスクールに特別入学し、11歳でカレッジに入学し、数学・生理学・哲学を特に学ぶ。14歳でハーバード大学大学院の動物学科に入学したが、1年後には哲学に転科して数理哲学を修め、18歳のとき博士号を授与された。その後イギリスに渡りケンブリッジ大学でバートランド・ラッセルのもとで研究をつづけ、ここで物理学の重要さを教えられた。
その後帰米して1919年にマサチューセッツ工科大学の数学の講師になり、1934年に教授となる。1930年代、神経生理学者と共同研究を行い、神経系と計算機械及び制御機械との一連の著しい類似性を深く追求することになる。1948年に「サイバネティックス」を著し、綜合科学として、それぞれ独立して発展してきた諸科学の融合に道筋をつけた。』

ノバート・ウィーナーの日本語版の主な著書
文献(1)サイバネティックス[第2版]---動物と機械における制御と通信---
池原止戈夫、彌永昌吉、室賀三郎、戸田巌 共訳、(株)岩波書店、1962年10月

文献(2)人間機械論---サイバネティックスと社会---
池原止戈夫 訳、(株)みすず書房、1954年1月
(人間機械論[第二版]---人間の人間的な利用--- 鎮目恭夫、池原止戈夫 共訳、(株)みすず書房、1979年10月)

素朴で基本的な疑問 「仏教や人間の心について扱っているのに、なぜ電脳なの?」に対する答えとしてのサイバネティックスの概念は、適切のように思われます。この疑問は、まさにノバート・ウィーナーの生涯の仕事だったのです。

西田幾多郎とノバート・ウィーナー

このシリーズで最近考察しているのは西田幾多郎の思想なのですが、この西田幾多郎とノバート・ウィーナーは、年代的に近いのです。ここで西田幾多郎の京都時代の主な作品の発表あるいは出版の年代の概略を記します。

 「善の研究」の出版 ・・・・・・・・・・・・・・・1911年
 「自覚に於ける直観と反省」の出版 ・・ 1917年
 「場所」を発表 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1926年
 「働くものから見るものへ」の出版 ・・・1927年
 「行為的直観」の出版 ・・・・・・・・・・・・・1937年

西田幾多郎が西洋の哲学を勉強し、それに批判を加え独自の哲学を発展させた京都時代、若きノバート・ウィーナーも哲学を勉強していたのです。

すなわちウィーナーがカレッジで数学・生理学・哲学を主に学び始めた1905年以降、ケンブリッジ大学でバートランド・ラッセルのもとで研究をしていた1910年代においては、哲学を専門として研究していたはずであり、当然それ以後も興味を持っていたはずです。

このように同時代に哲学を学んでいたという共通点のほかに、関心を持っていた事柄も似ているように思えるのです。西田幾多郎は、哲学として自己とは何かを究明しているのに対し、ノバート・ウィーナーは神経生理学的な観点から自己制御の機能の情報の流れを解明しているのです。従ってその帰結に、類似点があってもよいのではないかと思われます。

仏教思想と西田哲学を「通信と制御」の視点から見る

先にも述べましたが、ノバート・ウィーナーの著書「サイバネティックス」には「動物と機械に於ける制御と通信」という副題が付いています。

ここで「通信」とは「情報の流れ」のことであり、「制御」とは情報の流れを制御することで、 情報を判断しそれを修正することです。ところで、「動物」と「機械」とをなぜ一緒に登場させたのでしょうか?

サイバネティックスのすごいところは、存在論でいう実体があろうがなかろうが、また形や材質がどうであろうと、 「情報の流れ」ということのみに着目して、「動物」と「機械」を同じ土俵(「場所」)にのせたことです。

これは仏教の唯識の世界、すなわち情報を認識し、思考する「識」のみの世界と、よく似ていると思いませんか。

映画「マトリックス」では、 唯識のアイデアを、人間を夢の中に閉じ込めることに利用しました。 「サイバネティックス」では、 人間と機械とを同じ土俵(「場所」)の上にのせ、その両者を究明し、 融合しようという手法に応用した訳です。

なんと西洋人は積極的でしたたかなのでしょう。心の繊細さを自負している日本人には考えられない発想なのです。ただし西田幾多郎の思想は特別で、徹底して自己を否定して、自我への執念を滅した状態になりきるため、 「物」になりきることができ、 同一の「場所」で「物」の真相を見ることができるのです。これは仏教思想も同じことで、 前にも一度考察していますが、「機械」となじみがよいのです。

例えば、情報を認識する機能をもつ機械は、センサーと呼ばれますが、ここで検出された信号は、西田の「善の研究」でいう『色を見、音を聞く刹那、・・・未だ主もなく客もない』の『純粋経験』そのものなのです。これを仏教(唯識)では「五識」といいます。

以上仏教思想や西田哲学を「通信と制御」の視点から考察することは、有効と思われます。

(1)縁起は関数 f ( ) 

「縁」とは広辞苑によると『B[仏]原因をたすけて結果を生じさせる作用。直接的原因(因)に対して間接的条件。・・・』とあります。すなわち縁起とは、因(直接的原因)と縁の作用(機能、働き)によって、果(結果)を生起させることなのでしょう。

ここで何らかの結果を生じさせる作用(機能、働き)のことを、英語ではfunction といいますが、数学用語では関数といいます。原因となる変数 X と関数 f ( ) によって、結果 Y(= f (X))を生起することと同じです。すなわち縁は、因と果を対応(関係)ずけるもので、 関数あるいは写像 f ( ) を意味します。これらの関係を図示すると、下図のように「情報の変換」を意味するものです。

図1
図1. 情報の変遷(へんせん)の図式

(2)十二縁起は漸化式

前回、西田のいう「自覚の構造」は漸化式で表現できることの考察をしましたが、仏教の「十二縁起」も縁起の連鎖で、漸化式の形式によく似ています。これを図示すると、下図のように「情報の変遷の連鎖」を意味します。

図1
図2. 情報の変遷の連鎖の図式

なお誤解のないように記しておきますが、漸化式は決定論でありますが、原因(初期値)が同一でも、そこで用いられる関数(縁)によって、その結果はいかようでもとりうるものです。さらに非線形の関数(縁)の場合には、すでに考察しているように、決定論的カオスが生起する可能性があり、「必然と偶然」の両方を満たせるのです。

(3)西田の『行為的直観』は、フィードバック制御

サイバネティックスの実践的な技術として、フィードバック制御というのがあります。これについて、ウイーナーの著書(文献(2))の第一章「サイバネティックスとは何か」の記述の一部を下記に引用して説明します。

『私は、生物固体の行動と最近の通信機械のあるものの行動とが精密に平行的であることをいおうとしているのである。この両者は共に、その行動過程の一段階として感覚受容器をもっている。すなわち、両方とも、外界から低いエネルギー・レベルで情報を集め、それを個体または機械の行動に役立てるための特殊な装置をそなえている。 どちらにおいてもこれらの外からの通信文はなまで取り込まれるのではなく、その装置が生きものであってもなくても、その内部の変換機構を通して取り入れられるのである。そこで情報が行動のその後の段階の遂行に利用できる新しい形にかえられる。動物においても機械においてもこれは行動を外界に対して効果的に遂行させるように作用する。どちらにおいても、単にそれらが「しようとした動作」ではなく外界に対して「実際に行われた動作」が中央の調整装置に復命されてくる、行動のこのような複合は普通人から無視されており、特に我々が普通行う社会の研究においてそれが当然演ずるべき役割が果たされていない。』

上記の引用文の下線部分からフィードバック制御の要点がわかります。下の図3の(A)を参照しながら、以下を読んで下さい。

@ 感覚受容器をもつこと。

情報を感知するためのもので、人間の場合は感覚器官であり、機械の場合は一般にセンサーとよばれるものです。

A @で感知された行動の情報が、次の段階の行動の遂行に利用できるよう情報を新しい形に変換する機能をもつこと。

実際に行われた行動を何らかの受容器で感知するときには、形とか、色とか、音とかの信号に変換されるのですが、この信号と基準となる入力信号とを比較照合し、次の行動に何らかの修正を行うための新たな入力信号をつくり出す機能です。

このフィードバック制御の特徴は、「しようとした行動」ではなく、外界(開かれた系)に対して「実際に行われた動作」が感知され、それが次の段階の行動に生かされるということです。

下線の最後の部分、「行動のこのような複合は」の意味は、 「行動即感知、そして次の行動即感知」の繰り返しということと思われます。

図1
図3. 行為に対する情報の逆送給(フィードバック)の図式

さて次に、 西田幾多郎の著書「行為的直観」(上田閑照 編「論理と生命、他四篇」((株)岩波書店、1988年8月))の概略を紹介しておきます。

まず西田のいう「行為的直観」とはまさに上記のフィードバック制御の考察、「行動即感知、そして次の行動即感知」の繰り返しそのものと思われます。著書「行為的直観」で何度も出てくる、 これを説明する言葉『作られたものから作るものへということである。かかる意味において作ることが見ることでなければならない。』を情報の流れとしての図3の(B)を参照しながら説明します。

制作という行為の結果(出力)は、「作られたもの」であって例えば作品のようなものです。一方原因となる入力は「作るもの」に相当し例えば制作者ということになります。すなわち作られたもの(出力)から作るもの(入力)へ、感覚器官を介して情報を逆送し、 照合・修正して次の段階の制作に生かすということなのです。 我々の行動は、行為的直観的に物を見ることより起こるのです。

「行為的直観」という言葉が初めて出てくる著書「弁証法的一般者としての世界」(上記の本)にも次のような記述があります。

『行為においては我々は行為によって外に物を見るのである、しかして外に見られたものがまた我々を動かすのである、 我々の行為を限定するのである、主観が客観を限定し、客観が主観を限定するのである。我々の行為は形成作用でなければならない。かかる形成作用というものは現実が現実自身を限定することから考えられる。我々の行為は常に知覚の世界に即して考えられるのである。』

このようにフィードバック制御回路の情報の流れは、人間の場合「主観が客観であり、客観が主観である」という主客合一の作用を生み出す流れを意味するのでしょう。

そしてこの時点で、華厳経でいう「心は巧みな画工のようなもの」とはどういう意味かと問われたら、心の作用は「行為的直観」の連鎖によって、作品を制作するようなもの、と答えたいのですが、 如何でしょう。

2009.7.5