『開かれた自己』

前回に引き続き、上田閑照 著「西田幾多郎を読む」((株)岩波書店、1991年11月)の第四講「自覚から場所へ」を参考にして、西田幾多郎の「自覚」と「場所」についての思想を考察します。

そして「自覚」においては、「開かれた自己」が重要な役割を演ずるのですが、これに関連して、「華厳経の風景」の科学ともいうべき「開かれた系 / 複雑系」との関係について考察してみたいと思います。

自覚における「場所」の重要性

自覚の構造として、西田は『自己が自己に於いて自己を映す(見る)』と言う定式化をしていますが、ここで上田閑照先生は「自己に於いて」がきわめて重要であることを指摘しています。これについての記述の一部を下記に引用します。

(1)閉じられた自己か開かれた自己か

『ところで、「自己に於いて」というところに「場所」的な意義があるとしても、場所が「自己に於いて」だとしますと、何か自分のなかに閉じ込められているような自己閉鎖的な事態になるようにも聞こえるのですが、西田が見ていることはむしろ逆の事態です。「自覚ということは自己が自己に於いて自己を見るということである。・・・自己がが自己に於いてとなることである。即ち場所其者となることである。」(5−427)。「自己に於いて」と言うとき、その場所的契機としての自己は同時に、自己がいる場所に開かれている自己です。』

上記の引用文から、もし「自己に於いて」を「自己が居る場所に閉ざされて」と解釈したら、 自覚の過程で自己は変化せず、自己が無限に新しく発展していく自己ではなく、 いつまでも同じ自己なのです。この構造を、前回考察した三角形の自己相似集合図形の制作過程で表現したならば、 単なる三角形の「入れ子構造」になるでしょう。

すなわち「自己が自己に於いて自己を映す(見る)」を何回反復繰り返しても、最初の基本パターンがそのまま自己の中に映し込まれるだけなのです。自覚の構造は、 単純な「入れ子構造」ではなく、どこまでも同じ人形が現れるロシアの民芸品の「マトリョーシカ人形」ではないのです。前回の記述の図1のように、自己の内容(内部形状)が反復毎に複雑で詳細にならないと、 変化し発展した自己とは言わないのでしょう。

さて、このような「自己が居る場所に閉ざされた」状況を、上田閑照先生は「自覚」ではなく「自意識」であると表現し、この事態を回避するために、 「自己に於いて」を「自己が居る場所に開かれて」と解釈することの重要性を強調しています。この「自己が居る場所に開かれて」とはどういうことかを次に考察します。

(2)「場所」は「他との関わりの場所」

『さらにこの「自己に於いて」が自覚の場所的契機であり得るためには、同時に、自己が居る場所に自己が開かれていなければなりません。 その場所は、差し当たってさまざまな関連における他者との交わりや物とのかかわりの場所でありつつ、幾重もの場所であり、深みをたたえている場所です。』

この引用文からは、自己と他者あるいは物とが相互に関連する場所であり、その結果として自己は他者や物から何らかの影響を受けたり、あるいは逆に他者や物に影響を与える場所なのです。

「自己が居る場所に開かれて」というのは、自己が居る場所で「情報・エネルギー・物質」の授受(じゅじゅ)、すなわちやりとりが行われるということを意味します。

後で考察する「華厳経の風景」の基礎理論となる「複雑系の科学」で主要な役割を演ずる「開かれた系」というのは、まさに「エネルギーや物質」が流入したり、流出する「場」を意味します。

ここでは自覚についての考察なので、この場所の機能は、自己が自己自身及び他者や物から影響を受けて、自己が変化するときの関数(写像)と解釈できます。すなわち『自己を映す(見る)』とは、新たな自己を写像することなのです。

(3)『自己が自己に於いて自己を映す(見る)』の自己を区別する

(1)、(2)の考察から、自己は変化しているのですから、上記の文章の自己は全て同じではないのです。すなわち「変化する前の自己」と「変化した自己」がある訳です。いま「変化する前の自己」は[自己]の下付き文字としてnを用い、[変化した後の自己」は下付き文字としてn+1を用います。

「自己が自己に於いて自己を映す(見る)」の自己を区別すると、「[自己]nが[自己]nに於いて[自己]n+1を映す(見る)」ということになるのでしょう。すなわちこの文章を数学的に表現するなら、現在の自己([自己]n)から変化した新たな自己([自己]n+1)への写像(関数)なのです。

以上、「自己に於いて」は「自己が居る場所に開かれて」であり、この「自己が居る場所に開かれて」は関数(写像)で、f([自己]n,・・・)に相当します。ここで「場所に開かれて」は、f( )に相当します。このカッコ内は、まさに開かれた状態にあり、必要とあればいくつでも変数を入れることができます。例えば「自己の世界」が、自己と自己と関わる他者及び周囲環境で構成されるとしますと、f(自己, 他者, 周囲環境)と表現することもできます。ただし自己の世界の構成要素は一体化して、自己そのものとも表現することもできます。ここでは「開かれて」を強調するために、f([自己]n,・・・)と表現しておきます。

すなわち「自己が自己に於いて自己を映す(見る)」の文章は、[自己]n+1 = f ([自己]n,・・・) で表されます。ここで前回考察したように、 上記の関係が無限に繰り返され、 無限の自己創造であり、これが自覚の構造なのでした。すなわち n = 0,1,2,3,・・・ と繰り返される漸化式なのです。

この漸化式については、「華厳経の風景」の「「重重無尽」が行き着く世界」で詳細に考察をし、また他のいろいろなところで話題にしてきましたが、 「華厳経の風景」の画像を生み出す式そのものなのです。

最後に、西田の『自己が自己に於いて自己を映す(見る)』の文章は、上田閑照先生が指摘しているように、 純粋経験 > 自覚 > 場所 という流れに沿って定式化されたもので、「自己」は凡人の自己ではないのです。ここでの自覚は「真の自覚」であって、純粋経験を踏まえた上での自覚であって、当然自己もそれ相応の限定が与えられた「自己」なのです。すなわち自己は開かれた自己であって、 かつ自己中心的ではない「無の自己」でなければならないのでしょう。

もちろん漸化式の[自己]も、自然科学的な純粋な視点で、この f([自己]n,・・・) の具体的な式の内容が定められる必要があります。

開かれた系/複雑系

系とはシステムのことです。「開かれた系」の反対語の「閉じられた系」は、 複雑な自然現象を解析しやすいように、近似的に想定された理論モデルや実験室での実験などと考えてよいでしょう。この場合は熱力学の第一法則(エネルギー保存の法則)と第二法則(エントロピー増大の法則)が成立する理想的な状態です。

一方、開かれた系は、上記の法則は成立せず、外部環境との間でエネルギーや物質の交換が行われている自然現象そのものです。生物学的な系や社会学的な系も開かれた系です。この開かれた系では、 内部の状態だけで決められず、不確定な外部の影響に依存すると同時に、外部に影響を与えるのです。すなわちこの系は、系全体を構成する部分によって系全体が影響を受けると同時に、外部環境とのやりとりの結果として、時間的な流れを通して系全体が部分に反映するのです。そしてこの結果として起こる、「非線形性」と「フィードバック効果」により、わずかな「ゆらぎ」による変動から、系が劇的な変化を生み出す可能性が生まれるのです。この生み出されたものの中には何らかの秩序をもった創造性のあるものも存在するのです。

この複雑な系の振る舞いの基本的な考え方は、まさに「木と森の関係」に似ています。多くの木によって構成される森(全体)は、当然個々の木の相互作用の影響を受けるのですが、こんどはこの形成された森によって、太陽光や水・養分の供給の面で個々の木に影響が及ぶことになるのです。このようにして長時間の経過で形成された森は、 「乱雑」ではなく、 何らかの「秩序」をもった美しい風景に発展し、我々に安らぎを与えるのです。

以上、「閉じられた系」と「開かれた系」を別な表現でいうと、「単純系」と「複雑系」ということになるのでしょう。森羅万象の複雑な現象を、単純化(理想化)せずに、複雑なまま扱うのが複雑系の科学なのです。

複雑な現象の代表例としては、閉じられた系(単純系)の特徴ともいうべき、「エントロピーの増大(乱雑化)の法則」に逆らって、新たに生まれ出る何らかの秩序は、開かれた系(複雑系)の特徴といえるのでしょう。

複雑な自然現象を複雑なまま扱う複雑系の科学は、 仏教思想でいう、何ら作為を加えない「ありのまま」ということで、仏教思想に相通ずるところが多いのです。華厳経での最も象徴的な言葉『一つの微塵(みじん)の中に、あらゆる微塵の数に等しい微細の国土が、ことごとく住している。』を現代人に納得のいくように解釈するとしたら、この複雑系の科学の視点と、 西田幾多郎の自覚の構造『自己が自己に於いて自己を映す』とから、下記のように説明することが可能です。

多くの個によって構成されている世界(国土)は、個々の相互作用によって影響を受け、これによる世界の変貌が、こんどは時間の経過に伴って個々に影響を及ぼします。この反復繰り返しが、過去から長い時間継続し、現在の進化した世界が、個々に反映し、映し出されているのです。

そしてこの上記の表現は、まさしく自己相似集合図形そのものなのです。この複雑系の科学の特徴を、よりわかりやすく、より砕いて表現したのが、本ホームページの主題である「自然科学から生まれる花園」なのです。

閉じられた家 / 失われた夏の宵の風物詩

映画「マトリックス」では、 発電所の広大な地下室に、「行列」すなわち横と縦の格子状に並べられた無数のカプセル、それぞれの中の液体に包まれて人間は、電脳から送られる信号によって夢を見続けているのです。

このカプセルはまさに「母体」を意味するのでしょう。すなわち人間が生まれ出る前の状態で、 一生涯を過ごすことを意味しています。

ところで、最近の日本の社会は少しおかしいのです。私の子供の頃の思い出として、 夏の宵があげられます。他人の家で、スイカやトウモロコシをご馳走になることなどは日常茶飯事のことだったのです。どこでも縁側や縁台で、 大人たちはうちわ片手に世間話をしたり、将棋などをしており、子供たちは集まってお化けの話や花火を楽しんでいたのです。とくに七夕やお盆の期間には、どこの家にもご馳走があり、運が良ければぼた餅にもありつけたのです。

ところが最近の夏の宵は、 ほとんどの家が雨戸を閉め切って、中でクーラーをかけ、テレビを見ているのです。外を散歩すると、あたかもゴーストタウンのような気持ちになるのは、 私だけなのでしょうか。

ここで「縁側」や「縁台」は、外部と系(家)とが接触(縁)を保つことの象徴だったのです。近年はこれらがなくなり、その代わりに外部を遮断する「雨戸(シャッター)」に入れ替わったのです。

雨戸を閉め切った家という、周囲環境から隔離し、最適な温度調節のあるカプセルの中で、テレビという仮想現実を見て過ごしているのです。これは映画「マトリックス」の世界が現実に存在し、このような状態は、現代人にとって居心地がよいということなのでしょうか?

哺乳動物の特徴として、母親の胎内にいるときがいちばん安全で安心なのでしょうが、 ここに長時間滞在することは、人間として幸せかどうか問題です。

仏教思想は、分割される前の根源としての未分化(無分別)の状態を重視するのですが、この重要性は認めるとしても、これにいつまでも閉じこもることに意味があるとは思えません。

鈴木大拙のいう『無分別の分別』、西田幾多郎のいう『個は個に対して個』、上田閑照のいう『開かれた自己』という言葉が身にしみて感じられるのです。

2009.5.26