マトリックスの世界

昔は、想像の域を脱しなかった事柄が、現代では電脳の発達により、より現実的な問題として浮かび上がり、あるいは現代からのさらなる飛躍した想像を呼び、新たな論議の場が生まれるのです。「唯識」などもその例で、これからの仏教やそれに伴う哲学を考える上でも、大変良いことだと思っています。

今回は、ちょうど今から10年前の1999年に制作された映画『マトリックス(The Matrix)』(監督・脚本:アンディ&ラリー・ウォシャウスキー兄弟)について考察します。当時は、 特殊撮影による、ど派手なアクションに惑わされ、「スーパーマン」のような活劇映画だと思い込み、字幕の日本語は注意深く読まずに、画面のすごさだけを楽しんでいたのです。たぶん多くの日本人は、このような受け取り方をしていたと思います。

私は、電脳に関連して「マトリックス」という言葉に前から興味を持っていたので、映画の内容はある程度理解していたのですが、仏教にはあまり興味を持っていなかった時代で、仏教に関連していたとは気がつかなかったのです。

その後何回かテレビで放映され、アクションには飽きがきて、あまり注目されなくなりました。たまたま昨年暮れに、テレビで日本語吹き替え版で放映されていたのを、ながら族的に聞いていて、こんなにも仏教に関連した内容であったかと驚いたのです。ただしこのように強く感じたのは私であって、西洋人の多くは、そのようには感じていないのです。

西洋での若者向きの哲学の教材

この映画は、電脳によって人間の「識」(心とか頭脳)が支配されるという従来の映画とは少し異なり、人間が生きる意味を問うような哲学的な思想をメインテーマとした画期的な作品なのです。実は、この映画の哲学的思想を解説した教材があるのです。ウイリアム・アーウィン編著、松浦俊輔/小野木明恵 訳 「マトリックスの哲学」((株)白夜書房、2003年10月)で、この本は、アメリカの大学の哲学関連の先生方が、この映画の内容についてそれぞれ考察して寄稿した20編の文章から成り、きわめてまじめに考察しているところが、気に入っています。

ここに出てくる思想の内容も、『実在主義、マルクス主義、フェミニズム、仏教、ニヒリズム、ポストモダニズムというように。自分の哲学上のイズムを挙げれば、それが「マトリックス」の中に見つかる。』(序章)と多種多彩であり、歴史上有名な西洋の哲学者の名前もずらっと出て来ます。

これなら現代の若者も、映画と対応して、哲学に興味を持つと思われます。
私にとっては、仏教以外に似たような考え方が、思いの外あることを教えられ、大変勉強になったのです。

この本では仏教との関連もある程度考察されていますが、そこで詳細には指摘されていない核心と思われる部分について、 以下記述したいと思います。

「マトリックス」の世界 = 「唯識」の世界?

この映画では、二つの世界があり、マトリックスの世界と現実(真実)の世界です。主人公のネオが、坊主頭のモーフィアスに導かれて、初めてマトリックスの世界とは何なのかの説明を受けるシーンがあるのです。ここでまずモーフィアスがネオに、現実を認識するとはどういうことかについて次のように説明しています。 以下ビデオの日本語字幕(林完治)版のセリフを引用します。

『現実とは何だ?
 明確な区別などできん。
 五官で知覚できるものが現実だと言うのなら、
 それは脳による電気信号の解釈にすぎん。』

これはまさに「唯識」のアイディアによく似ています。ただしこの唯識は人間の我執や法執を否定して、仏教の「空」の世界を理論的に説明するものなのですが、この映画では少し違うのです。この唯識のアイディアを、電脳が人間を支配するための夢の世界ともいうべきマトリックスの世界を実現するために利用するのです。電脳は人間をこの夢の世界に一生涯とじ込めることによって、電脳に必要な電気エネルギーを人間の体から取り出しているのです。

この映画のあらましは、ネオがモーフィアスの導きで、この夢の世界から徐々に目覚めていき、いまだ夢を見続けている大衆(人間)を、この夢の世界から解放し、現実(真実)の世界に導こうと立ち上がるという話なのです。

これは、 お釈迦様が菩提樹の下で悟り、いまだ「色」の世界で迷い続けている人間の苦悩を解放し、「空」の世界を体験する道に導くことに生涯をささげた話によく似ています。

十二因縁への挑戦?/『無知は幸福』

このシーンは、この映画の哲学的な意味での主要な場面で、まずこれを理解するための背景を説明しておきます。

現実(真実)の世界は、22世紀、太陽光の極端に少ないモノクロ(無彩色)の世界と設定されています。そして地球上の自然は、荒涼とした砂漠か海なのです。当然、食料も人間が生きていくための最小限の栄養しか得られず、毎日が『鼻水だね』のような流動食なのです。

これらの情景は、私には昔の禅の世界を思い起こさせるのです。すなわち水墨画の世界であり、人里離れて山にこもって一人で修行する修行僧、生きていくために毎日薄い粥をすすり、寒さと飢えに耐えながら日々を過ごすのです。

一方、マトリックスの世界、これは電脳から人間の脳にプラグを介して信号が送られている仮想現実の世界です。ここでは光が満ちあふれカラフルな世界、高層ビルが立ち並び、現代のように人間はあくせくと働く競争社会ですけれども、週末には家族とともにレストランで、ステーキとワインの味を楽しむことができる社会です。仏教でいう「色」の世界に似ています。

さていよいよ問題のシーンなのですが、これは電脳の手先としてマトリックスの世界での監視人であるスミスと、現実(真実)の世界の同志の一人であるサイファーとが、マトリックスの世界のレストランで密談をする場面です。サイファーは同志を裏切る代わりに、もとのマトリックスの世界に戻して欲しいと頼み込むのです。そして極上のステ−キをうまそうに味わいながらサイファーは次のようなセリフを言うのです。

『この肉も実在しないんだよな。
 口の中にほうり込むとマトリックスが脳に信号を送り、
 うまいと錯覚させる。
 プラグを外されて9年、おれは悟ったよ。
 「無知は幸福」 』

サイファーはマトリックスの世界から救出され、脳へのプラグは外され現実(真実)の世界で9年間過ごしているのです。すなわちマトリックスの世界の裏表を十分に知り、かつ現実(真実)の世界も十分に体験した、全てを知り尽くした上での決断なのです。そしてこの9年間の体験から、何も知らないで一生涯夢を見続けている凡人が幸福だと悟った、と言ってます。

現代人としては、サイファーの気持ちは痛いほどよくわかるのです。最近の日本でも、若者が薬で一時でも夢の世界へ逃避しようとする傾向にあるのですから。

この事態に対処するための、現代人に十分納得がいくような哲学的で明解な説明が、用意されているのでしょうか?

この映画では、仏教僧の姿をした少年が、念力でスプーン曲げをするシーンがあるのですが、このときのネオとこの少年とのやりとりが、よく知られている禅問答(「非風非幡(ひばん)」)の内容によく似ているのです。

私のような凡人から見ると、この映画は、仏教思想を逆手にとって、「これ如何に!」と東洋人に禅問答を仕掛けているように思われるのです。

仏教の説法を現代にどう対応させるか

秋月龍a(りょうみん)著「鈴木大拙」((株)講談社、2004年4月、講談社学術文庫)での「禅とは何か」の項で、科学の象徴としてのレーダーをもつ飛行機と本能的な知恵をもつ渡り鳥の話や、ルーム・クーラーと心頭滅却の精神主義との対比の話から禅をとらえた例を挙げ、 秋月龍aは禅を誤るものと激怒した後、次のように記述しています。

『・・・ますます完全な飛行機を、ルーム・クーラーを作り出す科学的行(ぎょう)のまっただなかにこそ禅がなければならない。もし禅が、すくなくともこれからの禅が、わたくしのいうような禅でなかったら、「東洋の叡智」などといってみても、せいぜいお能などのような、過去の文化財でしかなく、それではどこまで行っても禅は現代精神の大きな潮流とはなりえないでしょう。わたくしたちの考えている禅は、東洋西洋を問わず、これからの世界の指導精神となるような、この現代に生きてはたらく禅なのですから。』

仏教思想と電脳やフラクタルとの比較・考察は、単に過去の仏教の栄華の郷愁を誘うものではないのです。仏教思想が現代に生きてはたらき得ることを、電脳やフラクタル理論から実証し、現代の精神的な指針として現代人に納得されるような説法を模索するものなのです。好むと好まざるとにかかわらず、人間が作り上げた電脳の人間の生き方に及ぼす影響は、将来ますます大きくなるのでしょう。仏教の説法も時代とともに変わらなければならないのです。これは仏教の基本です。

2009.2.19