木と森の関係

前々回の「唯識・三性説と「空」の基本構造」での、「ズームイン・ズームアウトの世界」の項目で、「木を見て森を見ず」と「森を見て木を見ず」というスタンスについて考察をしましたが、今回はこの考察をさらに進めるために、木と森の関係について詳細な検討を試みます。

『木を見る西洋人 森を見る東洋人』

これは本の題目です。ミシガン大学心理学教授、リチャード・E・ニスベットの著作の『The Geography of Thought 』を日本語版に翻訳した社会心理学者村本由紀子氏の名訳なのです(ダイヤモンド社 2004年6月)。現代の東洋人(中国および中国文化の影響を多大に受けた日本や韓国を想定している)と西洋人のものの見方・考え方が、文化によっていかに違うのか、なぜ違うのかを、数々の心理学実験を紹介しながら科学的に解明した本なのです。

そして『東洋人のものの見方や考え方は「包括的」であり、西洋人のそれは「分析的」であるという。包括的思考とは、人や物といった対象を認識し理解するに際して、その対象を取り巻く「場」全体に注意を払い、対象とさまざまな場の要素との関係を重視する考え方である。他方、分析的思考とは、何よりも対象そのものの属性に注意を向け、カテゴリーに分類することによって、対象を理解しようとする考え方である。』とのことです。

本書には,『西洋的な自己と東洋的な自己』という項目もあり、「自己とは何か」を考える上でも十分参考になると思われます。このように「西洋対東洋」という扱いをしてますが、この優劣を論じたものではありません。著者は東洋的な思考に対してきわめて好意的であり、この思考の欠点については、やんわりと表現しています。

私の最も印象的であったところは『東アジア人(東洋人)のほうが、後になってから「最初から全部わかっていたことなのだ」と思い込みやすい(「後知恵バイアス」に陥りやすい)。』という表現です。

これについて、私なりに少し勘繰るなら、東洋的な思考は傍観者になりやすいと思われるのです。何か突発的な事件が起こったとき、敏速に対応して行動が起こせるかどうかという問題です。本書によれば、東洋人は矛盾を受け入れて全体的な観点から思考することから、矛盾に寛大であり矛盾に対する感受性は低いのです。 これは判断に時間を必要とし、即座に行動できず結果として傍観してしまい、 後になって批判する立場になりやすいことを意味します。

この点西洋的な思考では、 形式的で論理的な処理を得意としますから、矛盾に対する感受性は強く、即座に行動できるのです。まさに「木(?)を見てせざるは勇無きなり」なのです。事件に遭遇したとき、分別したときのリスクにちゅうちょして自らは行動せず、後になって「やれ平和だの、やれ平等だの」と批判するのはいただけません。

この本の結び(エピローグ)で、西洋の分析的思考と東洋の包括的思考の傾向は、今後容易には収束しそうにはないとしながらも、 両者の社会システムや価値が融合した新しい認知様式にもとずいた世界への収束の可能性を提言しています。

さて、以上の内容を踏まえた上で、 以後は仏教思想における木と森の関係を考察していきます。 ご存知のように仏教思想には、 「無分別後の分別」言い換えれば「包括的直観後の分析的思考」というプロセスがあります。この包括的直観とは何かを考えるとき、「空」の基本構造としての自己相似集合図形が参考になるのではという考察です。

三角形の自己相似集合図形から木と森を直観

里山の森を見ると誰でも心が安まるのです。これは日本人の原風景なのでしょう。そしてこれは木と森の相互関係が密で、事事無礙法界が成り立っている証しなのです。

個々の枝や葉が太陽の光を求めて競争し、その結果何らかの秩序が生まれ木全体の形を形成しているのです。また木の集合である森も、木々の太陽光や水・養分の争奪戦の結果森全体の形が形成されるのです。そしてこの森の形態が再度個々の木や枝・葉の形態に影響を及ぼすことになるのです。このように森全体とその構成要素である木や枝・葉との相互関係によって、これら全ての形態が形成されるのです。これは唯識・三性説の「依他起性(えたきしょう)」に相当するものです。

そしてこれは全て相互関係で構成されている「空」の基本構造としての自己相似集合図形とよく類似しているのです。下の図1は「22.鈴木大拙「華厳の研究」の研究」で展示した三角形の自己相似集合図形(シェルピンスキーのガスケット)の形成過程を表示したものです。

三角形の自己相似集合図形の制作過程
図1. 三角形の自己相似集合図形の制作過程

例えばこの図において、一本の木を仮に三角形に見立てることとします。この意味で三角形の三辺は緑色の線分で表示しています。自己を意味する最初の三角形と相即即入の反復回数が一回の場合とは、漢字の木と森の関係に相当しますが、実はどの反複回数の図形でも、一本の木ともあるいは山肌に木々が生えそろった森とも解釈できるのです。全体と部分とがほぼ同じということは、全体を木とも森とも見なすことができるのです。

「木を見て森を見ず」や「森を見て木を見ず」は、世間一般のたとえで、ここでの木と森は、部分と全体を表していますが、実は部分としての木も、枝・葉の集合としての全体なのです。 これが唯識でいう一切が依他起性と見る世界です。

くずし(ゆらぎ)の技法 / 「玄」の入り口

「空」の基本構造としての幾何学的な自己相似集合図形は、凡人でも即座にその世界観を直観できますが、きわめて単純で、型にはまった秩序であり、そこには独創性も新鮮味もありません。 この自己相似集合図形は、自己となる基本パターン図形の内部の何も存在しない空間に、互いに図形が妨げ合わないように、相即相入する位置を定めて形成を繰り返していくのでした。

しかし現実の世界は、こんなに単純ではないでしょう。 人間社会でも山あり谷ありの変動があると同じように、自然界でも気象変動があるので、「空」の基本構造のような型どおりにはいかないはずです。

それぞれの木は太陽光や水・養分の争奪戦の結果として枝・葉や根を伸ばして森を形成しているのです。この結果として礙げ合わない調和のとれた秩序が生まれるのであって、その形成過程では、自由競争があるのです。

このことから相即相入する位置にあまりこだわる必要はなく、これを自在に変えることによって、もっと複雑な調和や秩序の構造が形成される可能性があります。そこで、自己としての基本パターンや相即相入位置をいろいろ変化させ、その結果全体の構造がどのように変化するかを調べる「くずし(ゆらぎ)」の技法を採用します。

仏教思想の大前提は「無常」と思われるのですが、「空」の基本構造としての自己相似集合図形は、 一見固定的な形態のように受け取られるのです。

これはある時点での自己としての基本パターンであり、相即相入の位置であり、その時点の条件で形成された全体の構造であって、 当然時間の経過にともなって変化すべきものなのです。自己は進化し、 自己と周囲(他者や環境)との相即相入による一体化の場も変わるのです。

この意味からも「くずし(ゆらぎ)」は必要なものであり、これを積極的に許容しないと、自己相似集合図形での表現が制限されるのです。

以下に示す図2(a)〜(d)は、自己としての基本パターンである三角形を少し崩すのと、 相即相入する位置を変えた場合の例です。

くずし技法により生み出される画像
図2.くずし技法により生み出される画像

これらの画像は、図1の画像と比較すると、条件を少し「くずし」ただけの同じ原理で形成されたとは、想像できないと思われることでしょう。

図2(a)は、シェルピンスキーのガスケットの面影をわずかに残したもので、枝・葉が集まって一本の木を形成しているようでもあり、 あるいは山肌に木々が生え森を形成しているようでもあるイメージにより近づきます。

図2(b)〜(d)は、シェルピンスキーのガスケットの面影は全くなくなり、現実的な木に近づきます。

この 図2(a)〜(d)のように、見た目には相異している事と事でも、それぞれの背景に隠れている理によって、密接に関係しているのです。そしてわずかな条件の変化で、 その形態は大きく変わるのです。

三角形の幾何学的な自己相似集合図形は、いわば曼茶羅のようなもので、この図形を見て木とか森とかと直観することで、そこに「くずし(ゆらぎ)」の技法を取り込む拠(よりどころ)が得られ、より現実的な画像が生み出せるのです。このプロセスを「無分別後の分別」とか「包括的直観後の分析的思考」と解釈できないでしょうか?

理事無礙法界と事事無礙法界の関係

ここでは、竹村牧男 著「華厳とは何か」((株)春秋社、2004年3月)の第七章「松は竹、竹は松」を参考にします。

『「理事無礙法界」は理と事とが礙げ合うことなく融け合っていることをみるものです。・・・唯識の三性説の言葉を用いますと、事は「依他起性」(縁起の世界)であり、理は「円成実性」(真如・法性)となります。この両者の関係を唯識にあっては、不一不異と説明しています。 それはあたかも、個と一般、 特殊と普遍の関係に似ているといいます。』

図1のような幾何学的な自己相似集合図形において、外側の輪郭とその内部全てを「理」(一般・普遍)とし、内側に存在するそれぞれの輪郭とその内部を構成要素としての「事」(個・特殊)とします。ここで「事」(個・特殊)はそれぞれの相互関係で構成されており「依他起性」が成り立っています。そして全体の「理」(一般・普遍)は、全てにおいて礙げ合うことなく融け合って調和のとれた美しい秩序が形成され「円成実性」が成り立っています。故に理事無礙法界は幾何学的な自己相似集合図形と見なしてよいと思われます。そしてこの図形の内部の事と事は、事事無礙法界が成立します。

以上、理事無礙法界は、「空」の基本構造の全体と部分との関係に相当し、事事無礙法界は、その部分と部分の関係に相当します。このように、 普通容易には理解できない理事無礙法界と事事無礙法界との関係は、 「空」の基本構造から明示的に説明できるのです。

「不二」と「不一」の関係

「不二」と「不一」は一見矛盾しているように見えますが、 視点の違いだけなのです。「不一不異」は唯識三性説で「依他起性」と「円成実性」との関係を表すのでした。他との関係によって成り立っている「事」とその関係性を表す「理」のように、表裏一体の関係を複数(「不一」)とも単数(「不二」、「不異」)とも見ることができるのです。

今回の考察で使用した用語には、このような誤解を生じやすい言葉があるので、 対応表を以下に示しておきます。 ここで明らかになったのは、世間一般の見方と正反対なのが、 いかにも仏教思想らしいところなのでしょう。

表1.今回の考察での用語の対応
世間一般の用語
(注)木は単数と見、森は木の集りとして複数と見る。
仏教用語その他専門用語
個・特殊自己としての基本パターン
一般・普遍自己相似集合図形
(注)事や個などは、単独では存在しえないと、その周囲との相互関係として複数と見(「不一」)、理や一般などは、複数の相互関係で一体化しているとして単数と見る(「不二」)。


これはまさに鈴木大拙の「即非の論理」ということになるのでしょうが、これを「視点の相違」によるものと解釈することもできるのです。鈴木大拙は今回の考察のテーマに関しても、「華厳の研究」の中の第三篇の「九、四法界」の項目の最後で、次のように記述しています。

『若き求道の仏教徒善財の霊の目に展示せられた大毘廬舎那楼閣の有様に対して、シナの最も優れた哲学的心性の一人である法蔵がどの様な知的分析を与へたとしても、事実そのものはこの分析に何の関係もないのである。 分析は知性を満足せしめるかもしれぬ、併し知性がわれわれわの存在の全部ではない。われわれは法蔵や善財と共にどうしても一度は楼閣そのものの中に入って、自らに輝き出で、また、相互に映発して無礙自在である一切の諸荘厳事を目撃しなくてはならぬ。・・・』

分析的思考よりも、大毘廬舎那楼閣の内部すなわち一切の諸荘厳事の包括的構造を直観することを優先しています。

2009.1.19
(追記)

1月24日に国立新美術館で開催している加山又造展を見てきました。 実は、その作品の中で、大発見をしたのです。その作品名は「秋草」(1988年制作、四曲一隻屏風)で、 画面全体の約下半分には、いろいろな秋草がこんぜんと描かれています。その中に黄色で描かれたおみなえし(女郎花)が、画面下半分の全体にほぼ均等に散らばって、約20本近くある茎の各枝の上で咲いているのです。これらのおみなえしのそれぞれの茎の各枝に連なっている花の配置のパターンが、全て三角形の自己相似集合図形(シェルピンスキーのガスケット)にきわめてよく似ているのです。

加山又造は、造形がきわめて斬新で、独創的な日本画家なのですが、この芸術家の眼でとらえられた、おみなえしの茎から伸びている枝とその先の花の全体がほぼ三角形であり、黄色い花と花の配置が図1のパターンによく似ていることは、私の木とか森とかの直観より、雲泥の差の説得力があるのです。

2009.1.25